(2)
荷台から荷を下ろし終え、今日の仕事から解放される。じっちゃんの友だちであるオヤジさんのところの仕事がやっと終わった。
じっちゃんの友だちだと言っても爺さんではなく、まだ若い。たしか四十代だったはずだ。冬でも日焼けした、見るからに健康そうな顔に白い歯が覗いている。
オヤジさんのところのような業種は暮れともなれば特に忙しい。まあ、この季節、市場も飲食屋も忙しくなければ逆に問題なのだが。
「お疲れ。茶でも飲んでいきな」
オヤジさんは白い鳥打ち帽を取ってニッと笑い、手ぐしで髪を整えながら言った。髪が短いから、ぜんぜん整えられていないが。
「いや、イイ」
「ま、そう言うなって。今日は、ぜひ飲んでけ。そこで待ってな」
オヤジさんは帽子を頭に乗せるように軽くかぶり、目尻にシワが寄るくらい満面の笑みを浮かべながら両手で俺を制した。にこやかだが、やけに強引だな。
逃げ帰るほどの理由があるはずもなく、あまりの押しに負けて結局はオヤジさんに捕まってしまった。
今日は朝早くからボンに自分勝手な用で叩き起こされ、お陰で頭と目の辺りが重い。それに、今か今かと帰りを待たれているかと思うと、よけいに疲れが増す。考えただけで面倒だ。
オヤジさんは裏口から家の中へと消えた。
断りなく勝手に帰るわけにもゆかず、仕方なく裏口を入った土間の壁にもたれて待つことにする。レンガの壁が冷たい。火の気はなく、じっとしたままだと凍えそうだ。
開け放した出入口からは、ことさら冷えた外気が入り込んできた。戸を閉めてしまうと何だか長居をさせられそうで、帰りたい意志を表すために寒さを我慢して開けたままにしておく。
灰色の空が北風に鳴っている。濃淡が入り交じってまだら模様になっているお陰で風の流れが目に見える。低くのしかかる雲がいかにも冬らしく、今にも雪が落ちてきそうだ。
目を閉じて目頭を指で押さえる。軽くめまいがしていた。
「お疲れ様。お茶をどうぞ」
ふいにそばで女の声がした。目を開けて声のしたほうを見遣る。
長い髪を二つに分けて結った子が、椀を乗せた盆を持って静かに微笑みかけてきていた。オヤジさんの一人娘エマだ。
「すまない」
一つだけ乗った椀を取り、口をつける。熱くもなくぬるくもない。
盆を胸に抱きかかえて静かに笑顔をたたえているエマと目が合い、茶を飲む手を止める。 目が合うとエマは二、三まばたきをし、目を伏せて視線を外した。心なしか笑みが薄らいだようだ。
よく考えると、あまり意識してエマの顔を見たことはなかったような気がする。大きな目が印象的で、美人と言える顔立ちをしている。まるで人形のようだ。
たしかに看板娘として人気なのがうなずける。
残りの茶を一気に飲む。
「今日もお疲れ様。いつも父さんが無理を言ってゴメンね。あんな人だけど悪気はないんだよ」
盆のフチを指で撫でながら目線を落としてエマは言った。
たしかにこき使われるけど悪気がないことは分かっている。悪気があるなら、とっくに口論を通り越して殴り合いのケンカになってしまっているだろう。それに、こうしてここへ何年も手伝いに来ているはずがない。
エマも母親はない。でも、残った父親が気さくで大らかだから羨ましい。
生まれる家は選べないが、わからず屋のクソ親父と取り換えてほしいくらいだ。だったら、こんなにひねくれなくて済んだかも知れない。
「おかわりは要る?」
椀を持て余していると、エマはそれに気づいて言った。
「いや。イイ」
断ってカラの椀を差し出した。
エマは慌てて盆を小脇に挟み、両手で椀を受け取る。
「オヤジさんに、よろしく」
あいさつをして出入口のほうへ一歩踏み出す。
「…待って!」
いきなりエマに強い調子の声で呼び止められた。
俺は立ち止まって振り返った。目が合うと、エマは口を引き結んで沈痛な面持ちで下を向いた。
人を呼び止めておいて、なかなか用件を言い出そうとしない。何の用なんだ?次の仕事のことか?
「ねぇ…好きな子っている…?」
「えっ?」
的外れな言葉に一瞬おくれて思わず聞き返した。仕事のことじゃなかったのか。
…何だ、何でそんなことを聞くんだ…?
「いや、いないけど」
何だか解らないが、とりあえず答えると、エマは下を向いたまま視線を泳がせる。
いったい、何が言いたいんだろう。
馬車の通ってゆく音が聞こえた。
「…私、あなたが好き。ずっと前から」
音を合図にするかのようにエマは目を上げて言った。大きな双眸にまっすぐ見据えられる。
一瞬、耳を疑った。 どうして俺なんかを…でも、好きになられても、どうしようもない。
長いまつげに縁取られた青い瞳の目線を受け、返事に窮した。何て答えれば傷つけずに済むだろうか。
いろいろな言葉が脳裏を巡る。どれも良い返答だとは思えない。でも、何も言わないわけにはいかない。
「気持ちはありがたいが、今は他にやりたいことがあるんだ。すまない」
言葉に迷った末、そう答えた。
しかし、本人は、どう取ってくれたのだろうか。エマは淋しげにまつげを伏せ、憂いを含んだ瞳を隠した。
「そう……ゴメンね。引き留めて」
小さな声でそうつぶやき、エマは家の奥へと入って行った。
その後ろ姿を見て心苦しかった。
好いてくれるのは嬉しいが、固い性格は、どうしようもなく隙を作らない。悪いが、どうしようもないんだ。
かわいそうなことをしたような気がして、帰りの路は足も気持ちも重かった。
誰かのように軽くてイイ加減な人間になってしまうことができれば、どれだけ楽か。こんな後味の悪い気持ちにならなくても済むのだろう。
だが、自分がイイ加減な人間になるのだけは許せない。
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荷台から荷を下ろし終え、今日の仕事から解放される。じっちゃんの友だちであるオヤジさんのところの仕事がやっと終わった。
じっちゃんの友だちだと言っても爺さんではなく、まだ若い。たしか四十代だったはずだ。冬でも日焼けした、見るからに健康そうな顔に白い歯が覗いている。
オヤジさんのところのような業種は暮れともなれば特に忙しい。まあ、この季節、市場も飲食屋も忙しくなければ逆に問題なのだが。
「お疲れ。茶でも飲んでいきな」
オヤジさんは白い鳥打ち帽を取ってニッと笑い、手ぐしで髪を整えながら言った。髪が短いから、ぜんぜん整えられていないが。
「いや、イイ」
「ま、そう言うなって。今日は、ぜひ飲んでけ。そこで待ってな」
オヤジさんは帽子を頭に乗せるように軽くかぶり、目尻にシワが寄るくらい満面の笑みを浮かべながら両手で俺を制した。にこやかだが、やけに強引だな。
逃げ帰るほどの理由があるはずもなく、あまりの押しに負けて結局はオヤジさんに捕まってしまった。
今日は朝早くからボンに自分勝手な用で叩き起こされ、お陰で頭と目の辺りが重い。それに、今か今かと帰りを待たれているかと思うと、よけいに疲れが増す。考えただけで面倒だ。
オヤジさんは裏口から家の中へと消えた。
断りなく勝手に帰るわけにもゆかず、仕方なく裏口を入った土間の壁にもたれて待つことにする。レンガの壁が冷たい。火の気はなく、じっとしたままだと凍えそうだ。
開け放した出入口からは、ことさら冷えた外気が入り込んできた。戸を閉めてしまうと何だか長居をさせられそうで、帰りたい意志を表すために寒さを我慢して開けたままにしておく。
灰色の空が北風に鳴っている。濃淡が入り交じってまだら模様になっているお陰で風の流れが目に見える。低くのしかかる雲がいかにも冬らしく、今にも雪が落ちてきそうだ。
目を閉じて目頭を指で押さえる。軽くめまいがしていた。
「お疲れ様。お茶をどうぞ」
ふいにそばで女の声がした。目を開けて声のしたほうを見遣る。
長い髪を二つに分けて結った子が、椀を乗せた盆を持って静かに微笑みかけてきていた。オヤジさんの一人娘エマだ。
「すまない」
一つだけ乗った椀を取り、口をつける。熱くもなくぬるくもない。
盆を胸に抱きかかえて静かに笑顔をたたえているエマと目が合い、茶を飲む手を止める。 目が合うとエマは二、三まばたきをし、目を伏せて視線を外した。心なしか笑みが薄らいだようだ。
よく考えると、あまり意識してエマの顔を見たことはなかったような気がする。大きな目が印象的で、美人と言える顔立ちをしている。まるで人形のようだ。
たしかに看板娘として人気なのがうなずける。
残りの茶を一気に飲む。
「今日もお疲れ様。いつも父さんが無理を言ってゴメンね。あんな人だけど悪気はないんだよ」
盆のフチを指で撫でながら目線を落としてエマは言った。
たしかにこき使われるけど悪気がないことは分かっている。悪気があるなら、とっくに口論を通り越して殴り合いのケンカになってしまっているだろう。それに、こうしてここへ何年も手伝いに来ているはずがない。
エマも母親はない。でも、残った父親が気さくで大らかだから羨ましい。
生まれる家は選べないが、わからず屋のクソ親父と取り換えてほしいくらいだ。だったら、こんなにひねくれなくて済んだかも知れない。
「おかわりは要る?」
椀を持て余していると、エマはそれに気づいて言った。
「いや。イイ」
断ってカラの椀を差し出した。
エマは慌てて盆を小脇に挟み、両手で椀を受け取る。
「オヤジさんに、よろしく」
あいさつをして出入口のほうへ一歩踏み出す。
「…待って!」
いきなりエマに強い調子の声で呼び止められた。
俺は立ち止まって振り返った。目が合うと、エマは口を引き結んで沈痛な面持ちで下を向いた。
人を呼び止めておいて、なかなか用件を言い出そうとしない。何の用なんだ?次の仕事のことか?
「ねぇ…好きな子っている…?」
「えっ?」
的外れな言葉に一瞬おくれて思わず聞き返した。仕事のことじゃなかったのか。
…何だ、何でそんなことを聞くんだ…?
「いや、いないけど」
何だか解らないが、とりあえず答えると、エマは下を向いたまま視線を泳がせる。
いったい、何が言いたいんだろう。
馬車の通ってゆく音が聞こえた。
「…私、あなたが好き。ずっと前から」
音を合図にするかのようにエマは目を上げて言った。大きな双眸にまっすぐ見据えられる。
一瞬、耳を疑った。 どうして俺なんかを…でも、好きになられても、どうしようもない。
長いまつげに縁取られた青い瞳の目線を受け、返事に窮した。何て答えれば傷つけずに済むだろうか。
いろいろな言葉が脳裏を巡る。どれも良い返答だとは思えない。でも、何も言わないわけにはいかない。
「気持ちはありがたいが、今は他にやりたいことがあるんだ。すまない」
言葉に迷った末、そう答えた。
しかし、本人は、どう取ってくれたのだろうか。エマは淋しげにまつげを伏せ、憂いを含んだ瞳を隠した。
「そう……ゴメンね。引き留めて」
小さな声でそうつぶやき、エマは家の奥へと入って行った。
その後ろ姿を見て心苦しかった。
好いてくれるのは嬉しいが、固い性格は、どうしようもなく隙を作らない。悪いが、どうしようもないんだ。
かわいそうなことをしたような気がして、帰りの路は足も気持ちも重かった。
誰かのように軽くてイイ加減な人間になってしまうことができれば、どれだけ楽か。こんな後味の悪い気持ちにならなくても済むのだろう。
だが、自分がイイ加減な人間になるのだけは許せない。
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