(3)
まさか本当に寝込んでいるとは思わなかった。
アルの部屋の前まで下男に案内された。ジェンスが礼を言うと、青白くて陰気な下男は頭を下げ、足音もなく去っていった。気味の悪い男だ。
戸を叩く。熱があると聞いているから、いちおう静かに叩いてやる。
「開けるぞ」
「誰?」
「俺だ」
「俺、だけやったら誰か分からんわ」
誰だか分かっていそうな返事だ。
取っ手に手をかけ、戸を押し開ける。ふっと甘い匂いがした。
室内は薄暗い。昼間だというのにカーテンは閉めきられている。ものすごく陰気だ。
「こんにちは〜」
ジェンスは俺のうしろで間延びした声を出した。
おそらくアルだろう。左手にあるベッドには何やら布団に包まれている物体がある。
「なに寝てやがる」
「しんどいからやん。アホか。見たら分かるやろが」
声からすると向こうを向いて寝ているようだ。布団を頭からかぶっていて顔は見えない。
見ていてあまりにも陰気だから布団を引っつかんでめくってやった。予想どおり向こうを向いて丸虫みたいに丸まって寝ていた。
「ひゃ〜ッ!何すんねん!痛いのに、やめろや!」
とっさにアルは身体を起こし、ボサボサ頭で目を吊り上げたスゴい形相で俺をにらみつける。俺の手から布団の端を乱暴に奪い返して、また頭から布団をかぶった。
そんなに怒らなくたってイイだろ。熱があるとは聞いていたが、頭でも痛いのか。
「様子を見に来たんだよ。大丈夫かい?どこが痛いんだい?」
「うるさいわ。ほっといてや…」
かたわらのジェンスが聞くと、アルの不機嫌で元気のない声がした。
「それより、お前から来んのん珍しいけど、何しに来てん。もしかして俺と会えんで淋しかったん?お土産に病気あげよか?」
たぶん俺に向けて言ったんだろう。そういや、俺のほうこそ土産があるが、やらないほうがイイだろうか。
「土産を持って来たが、食えるか」
「何や分からんけど、虫やなかったら食べるよ。もろとくわ。そこら置いとって」
誰が虫を持ってくるかよ。
「お土産というより、彼は自分が甘いの嫌いだからって君に持ってきたんだよ。言わば残り物、厄介払いかな」
俺が枕元の台に積み上げられた本の上に饅頭の箱を置くのを見て、したり顔でジェンスは告げ口した。余計なことを言う野郎だ。
俺は、そばの丸椅子を引き寄せて座った。
アルの部屋の広さは俺の部屋とあまり変わらない。俺の部屋にはたいして物はないが、アルの所は何やらごちゃごちゃと物があって狭く感じられる。物置みたいだな。
白塗りの壁には世界地図だろう、大きな地図が貼ってある。その前には机、その上には本が乱雑に積んである。開いたまま伏せた本も乗っている。散らかってるな。片づけろよ。
ジェンスは机に歩み寄り、積み重なっている本のひとつを手に取り、パラパラやり始めた。
昼だというのに薄暗い部屋は見れば見るほど気が滅入る。だけど、カーテンを勝手に開けりゃ、また怒るのは分かっている。
それにしても、多弁の奴が無口だと不気味で落ち着かない。ひょっとして眠ってしまったのか。
「起きてるのか」
「あんたら、まだおったんかいな。やかましいなぁ…俺かて考え事ぐらいあるわ」
アルのスネた声が布団の奥からした。お前に考え事があったなんて想像もつかない。木が歩くくらいおかしなことだ。
窓の外で鳴く雀のせわしない声が耳に入った。
「なぁ…お前はな、はよ大人になりたいか…?」
口を開いたかと思やぁ、突拍子もないことを言う奴だ。
早く大人になりたいか…?どうだろう。こいつは歳も実際もガキだろうが、俺は胸を張って子どもだとは言っていられない歳だ。だけど、逆に大人でもない。
子どもには子どもだけしかない特権みたいな甘えがあるだろう。でも俺は、人に甘えたくもないし、ガキ扱いされるのは嫌いだ。
本の立ち読みを始めたジェンスのうしろ姿に何気なく目を遣った。こいつは歳だけは十九だが、幼いのか年寄りじみているのかイマイチつかめない奴だ。
だけど、そもそも何が基準なんだ。歳か、身体か、中身か?
「大人って何だ」
「大人は大人やん。…大人やんか。なぁ」
それじゃあ答えになっていない。聞いて損した。
「なぁ、ジェンスは、どない思うん?」
いきなり話の矛先を向けられ、ジェンスは本から視線を上げた。
「ん?何がだい?」
「大人って何やと思う?」
「大人かい?子どもじゃないのが大人だよ」
ジェンスはそれだけ言って、また何事もなかったかのように目線を紙面に落とした。
往来を馬車の通ってゆく音が聞こえる。かなり遠ざかってゆくまで自然と耳をそばだててしまっていた。
「…俺はな、知りたくないことを知るのんが大人なんやと思うねん…」
アルはポツリと言った。どういう意味だろうか。知りたくないことか…裏とか嘘、汚いことの意味か。
「…せや…俺、変わってしもてん」
急に変なことを言う奴だ。
「何がだ」
「ううん…エエねん。お前には分からんし」
ずいぶんと思わせぶりだな。意味ありげで気になる。
それきりアルは黙ってしまった。
ジェンスが本をめくる音だけが薄暗い部屋に聞こえている。
そういや仕事の話を持ってきてやったけど、寝込んでいるのに遠出をさせて大丈夫か。まあ、遠出自身ができればの話だが。だけど、何も告げずに出発しちゃ、あとがうるさそうだからな。
「まだ病気は治りそうにないのか」
「何でそんなこと聞くん?何で?質問の意味によったら治る日数、変わるけど?」
何だそりゃ。
「仕事が入った」
「仕事??俺も、してエエん?もしかして」
うなずいてやった。
「それやったら、もう病気治ってるで!元気やで。見てのとおりや」
アルは飛び起きてベッドに座ってニタニタする。が、いつもより目に力がない。病人の顔じゃないか。本当に大丈夫なのか。
「絵を一枚、ティティスの廃墟まで取りに行く」
「盗りに行くって、ドロボーすんのん?」
その盗るじゃないだろうが。
「じょーだんやん。へぇ、ティティスか。でも、ティティスって、残ってんのは名前と廃墟だけやろ」
意外とよく知ってるな。
「お前は遠出してもイイのか」
「うん。ちょっと、おばちゃんに聞いてくるわ」
止める間もなくアルは少しフラつきながら部屋を出ていった。
あのアルのおばさんが、果たして許可を出してくれるんだろうか。厳しそうな人だし、その上に、実の子ではないアルをものすごく大切にしてるからな…まあ、厳しそうに見えて、かなり甘やかしているようだが。
アルが部屋を出ている間にカーテンを全開にする。路をはさんだ向かいの家越しに、かなたのヴァーバル湾がかすんで見える。アルの家は高台に建っているから見晴らしがイイ。
ジェンスは本に目線を落としたまま、誘われるようにして明るい窓辺へ移動し、熟読を始めた。
空を見上げれば秋晴れの青に染まずに翔ぶ鳥が見える。鳩だろうか、群れをなして昼下がりの空を大きく旋回している。
この同じ広い空の下、遠い廃墟にひっそりと忘れられた絵がある。それを待つ人もどこかの空の下にいる…そう思うと、ティティスの廃墟に肖像画が残っていることを願わずにはいられない。 ⇒
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まさか本当に寝込んでいるとは思わなかった。
アルの部屋の前まで下男に案内された。ジェンスが礼を言うと、青白くて陰気な下男は頭を下げ、足音もなく去っていった。気味の悪い男だ。
戸を叩く。熱があると聞いているから、いちおう静かに叩いてやる。
「開けるぞ」
「誰?」
「俺だ」
「俺、だけやったら誰か分からんわ」
誰だか分かっていそうな返事だ。
取っ手に手をかけ、戸を押し開ける。ふっと甘い匂いがした。
室内は薄暗い。昼間だというのにカーテンは閉めきられている。ものすごく陰気だ。
「こんにちは〜」
ジェンスは俺のうしろで間延びした声を出した。
おそらくアルだろう。左手にあるベッドには何やら布団に包まれている物体がある。
「なに寝てやがる」
「しんどいからやん。アホか。見たら分かるやろが」
声からすると向こうを向いて寝ているようだ。布団を頭からかぶっていて顔は見えない。
見ていてあまりにも陰気だから布団を引っつかんでめくってやった。予想どおり向こうを向いて丸虫みたいに丸まって寝ていた。
「ひゃ〜ッ!何すんねん!痛いのに、やめろや!」
とっさにアルは身体を起こし、ボサボサ頭で目を吊り上げたスゴい形相で俺をにらみつける。俺の手から布団の端を乱暴に奪い返して、また頭から布団をかぶった。
そんなに怒らなくたってイイだろ。熱があるとは聞いていたが、頭でも痛いのか。
「様子を見に来たんだよ。大丈夫かい?どこが痛いんだい?」
「うるさいわ。ほっといてや…」
かたわらのジェンスが聞くと、アルの不機嫌で元気のない声がした。
「それより、お前から来んのん珍しいけど、何しに来てん。もしかして俺と会えんで淋しかったん?お土産に病気あげよか?」
たぶん俺に向けて言ったんだろう。そういや、俺のほうこそ土産があるが、やらないほうがイイだろうか。
「土産を持って来たが、食えるか」
「何や分からんけど、虫やなかったら食べるよ。もろとくわ。そこら置いとって」
誰が虫を持ってくるかよ。
「お土産というより、彼は自分が甘いの嫌いだからって君に持ってきたんだよ。言わば残り物、厄介払いかな」
俺が枕元の台に積み上げられた本の上に饅頭の箱を置くのを見て、したり顔でジェンスは告げ口した。余計なことを言う野郎だ。
俺は、そばの丸椅子を引き寄せて座った。
アルの部屋の広さは俺の部屋とあまり変わらない。俺の部屋にはたいして物はないが、アルの所は何やらごちゃごちゃと物があって狭く感じられる。物置みたいだな。
白塗りの壁には世界地図だろう、大きな地図が貼ってある。その前には机、その上には本が乱雑に積んである。開いたまま伏せた本も乗っている。散らかってるな。片づけろよ。
ジェンスは机に歩み寄り、積み重なっている本のひとつを手に取り、パラパラやり始めた。
昼だというのに薄暗い部屋は見れば見るほど気が滅入る。だけど、カーテンを勝手に開けりゃ、また怒るのは分かっている。
それにしても、多弁の奴が無口だと不気味で落ち着かない。ひょっとして眠ってしまったのか。
「起きてるのか」
「あんたら、まだおったんかいな。やかましいなぁ…俺かて考え事ぐらいあるわ」
アルのスネた声が布団の奥からした。お前に考え事があったなんて想像もつかない。木が歩くくらいおかしなことだ。
窓の外で鳴く雀のせわしない声が耳に入った。
「なぁ…お前はな、はよ大人になりたいか…?」
口を開いたかと思やぁ、突拍子もないことを言う奴だ。
早く大人になりたいか…?どうだろう。こいつは歳も実際もガキだろうが、俺は胸を張って子どもだとは言っていられない歳だ。だけど、逆に大人でもない。
子どもには子どもだけしかない特権みたいな甘えがあるだろう。でも俺は、人に甘えたくもないし、ガキ扱いされるのは嫌いだ。
本の立ち読みを始めたジェンスのうしろ姿に何気なく目を遣った。こいつは歳だけは十九だが、幼いのか年寄りじみているのかイマイチつかめない奴だ。
だけど、そもそも何が基準なんだ。歳か、身体か、中身か?
「大人って何だ」
「大人は大人やん。…大人やんか。なぁ」
それじゃあ答えになっていない。聞いて損した。
「なぁ、ジェンスは、どない思うん?」
いきなり話の矛先を向けられ、ジェンスは本から視線を上げた。
「ん?何がだい?」
「大人って何やと思う?」
「大人かい?子どもじゃないのが大人だよ」
ジェンスはそれだけ言って、また何事もなかったかのように目線を紙面に落とした。
往来を馬車の通ってゆく音が聞こえる。かなり遠ざかってゆくまで自然と耳をそばだててしまっていた。
「…俺はな、知りたくないことを知るのんが大人なんやと思うねん…」
アルはポツリと言った。どういう意味だろうか。知りたくないことか…裏とか嘘、汚いことの意味か。
「…せや…俺、変わってしもてん」
急に変なことを言う奴だ。
「何がだ」
「ううん…エエねん。お前には分からんし」
ずいぶんと思わせぶりだな。意味ありげで気になる。
それきりアルは黙ってしまった。
ジェンスが本をめくる音だけが薄暗い部屋に聞こえている。
そういや仕事の話を持ってきてやったけど、寝込んでいるのに遠出をさせて大丈夫か。まあ、遠出自身ができればの話だが。だけど、何も告げずに出発しちゃ、あとがうるさそうだからな。
「まだ病気は治りそうにないのか」
「何でそんなこと聞くん?何で?質問の意味によったら治る日数、変わるけど?」
何だそりゃ。
「仕事が入った」
「仕事??俺も、してエエん?もしかして」
うなずいてやった。
「それやったら、もう病気治ってるで!元気やで。見てのとおりや」
アルは飛び起きてベッドに座ってニタニタする。が、いつもより目に力がない。病人の顔じゃないか。本当に大丈夫なのか。
「絵を一枚、ティティスの廃墟まで取りに行く」
「盗りに行くって、ドロボーすんのん?」
その盗るじゃないだろうが。
「じょーだんやん。へぇ、ティティスか。でも、ティティスって、残ってんのは名前と廃墟だけやろ」
意外とよく知ってるな。
「お前は遠出してもイイのか」
「うん。ちょっと、おばちゃんに聞いてくるわ」
止める間もなくアルは少しフラつきながら部屋を出ていった。
あのアルのおばさんが、果たして許可を出してくれるんだろうか。厳しそうな人だし、その上に、実の子ではないアルをものすごく大切にしてるからな…まあ、厳しそうに見えて、かなり甘やかしているようだが。
アルが部屋を出ている間にカーテンを全開にする。路をはさんだ向かいの家越しに、かなたのヴァーバル湾がかすんで見える。アルの家は高台に建っているから見晴らしがイイ。
ジェンスは本に目線を落としたまま、誘われるようにして明るい窓辺へ移動し、熟読を始めた。
空を見上げれば秋晴れの青に染まずに翔ぶ鳥が見える。鳩だろうか、群れをなして昼下がりの空を大きく旋回している。
この同じ広い空の下、遠い廃墟にひっそりと忘れられた絵がある。それを待つ人もどこかの空の下にいる…そう思うと、ティティスの廃墟に肖像画が残っていることを願わずにはいられない。 ⇒
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