クェトル&エアリアル『肖像の鳩』#4

(4)

 だんだんと雨足が強くなってきた。風も激しい音を立てている。
 墨を水に流したような暗い空に風が渦巻く。その濃淡で、雲の流れがものすごく速いのが見て取れる。

 峠付近で夜を明かし、早朝からネゼロア山を下り始め、もう少しでふもとに着きそうだというのにこれだ。雲行きが怪しいとは思っていたが、突然の大風に見舞われて嫌になっている。

 大きな水滴が容赦なく叩きつけ、目にも入って視界が遮られる。

「なぁ〜ッ!俺〜、軽いから、飛ばされそうやで!飛ばんように水飲んで〜、カバンに石入れて〜、体重減らんように大のほうをすんの我慢しとくわ〜!めっちゃエエ案やろ!」
 うしろから風雨に負けないようにと、ほとんど怒鳴るようなアルの高い声が聞こえてきた。馬鹿だ、内容が馬鹿だ。いつものことだが、くだらないことを言う奴だ。

「なぁ!お前!何で、この天気、予想できんかってん!?もう水筒も風呂も要らんぐらいやで!口開けとったら、おなかいっぱいやし、頭も身体も、きれなったし!滝登りする鯉の気持ち、よう解ったわ」
 ヒドい表現だな。

 こんなに荒れるとは予想もできなかった。俺だってうんざりしているところだ。だけど今さら、仕方がないだろうが。
 立て続けにグチグチと言っているのをずっと聞き流し、だいぶ長い間、風雨に逆らって歩き続けている。雨もうっとうしいが、アルの愚痴は、もっとうっとうしい。

 ヴァーバルを立って北東へ四日でネゼロア山脈に着き、ネゼロア山脈に入って二日目…日程のほうは予定どおりなのだが、特にこの季節、天候がどうなるかなんて俺に分かるかよ。
 運がなけりゃ大風の日に当たることもあるだろ。

 そんなに傾斜はないが、石や木の根が出っ張った道を泥水がうねりながら流れてゆく。濁流に足を踏み入れれば、足元をすくわれそうな勢いだ。

 道端の木の枝は風でムチのようにしなっている。
 木の根や低い枝をつかんで頼りにしながら、ひたすら低いほうへと歩く。夜陰の近さを物語る空の色は見る見る深みを増して、それに比例して不安も増す。
 動かないほうが賢明なのだろうが、どうしてももう少しで着くだろうという期待と、焦りの気持ちが出てしまうのが人情だろう。

「大丈夫なんか??山、下りられるんか?なぁ、馬鹿たれ!黙っとらんで何とか言えよ!」
 口の減らない奴だ。お前に言われなくたって俺自身、どうなることやらと思ってんだ。大丈夫だとも何だとも、答えようがないだろうが。
 それに、ぜんぶ俺だけが悪いのか?

「うるさい」
 苛立ちを視線に乗せて肩越しににらみつけ、ひとこと言ってやる。すると、アルはムッとして口を突き出し、明らかにスネ顔になった。
 つべこべとうるさいガキだ。何が相棒だ。やっぱし置いてくりゃ良かったか。だいたい口ばかしの奴で、何でも茶化して、お前は真面目なんだか不真面目なんだか分からん。

 叩きつける雨と突風が一緒になって周りの木々を騒がせる。そのままざわめきは木から木へと渡ってゆく。
 ぬぐってもぬぐっても水は顔へとかかり、何となくハラが立ってきた。

 アルは黙っている。どうやら効果があったようだ。
 だけど、やいのやいのと言ってやがったのが黙りゃ黙りゃで、今度はちゃんとついてきているかが気になる。
 アルのおばさんからコイツを預かっているという責任もある。アル自身なんてどうなってもイイが、何かあるとおばさんに申し訳ない。

 根比べに負けたようで悔しいが、結局は心配になってアルのほうを振り返る。
 何のことはない。ふて腐れた態度で歩いていたアルは、目が合うと俺を思いきりにらみつけて大げさに目を逸らした。ガキ丸出しだ。


 手の平で顔をぬぐいながらしばらく歩いていると、急に道が広くて平らになった。獣道なんかじゃなく、拓かれた道みたいだ。どうやら山を下りることができたらしい。
 道正面の木々の間から、家の屋根のような三角形の物が一つだけ見える。

「家あるやん!もう暗なってきたし、避難さしてもらお」
 アルも同じ建物のほうを向いて言った。
 この嵐じゃあ外で夜を明かせそうにない。たしかに避難させてもらうのが得策だろう。

 近づいても、その三角形の屋根ひとつが見えているだけで、どうやら街や村、集落なんかじゃなさそうだ。一向に他の建物は見えてこない。

 そうこうしている内に、ついに空の雲は闇にまぎれ、轟く風の音が聞こえるだけになった。
 気がつくと、どちらともなく家を目指し、強風に背を押されるようにして駆け出していた。

 川なのか、家のすぐ横を走る細い水路は、かさが増し、今にも茶色い水があふれてしまいそうだ。
 その脇には家の高さほどの木が森のように茂り、立ち並ぶ影が薄暗がりの中に見える。

 歩幅ほどの水路を飛び越え、ちょうどこちら側になっている玄関らしい戸を叩く。嵐に負けないくらい激しく、戸が壊れるんじゃないかというほどの勢いで何度も叩く。
 だが、大風で聞こえないのか、それとも空き家か。応答がない。

「こんばんは!」
 叩きながら、風雨に負けないように二人一緒に声を張り上げて呼び続ける。

「誰も住んでへんのやろか…」
 あきらめかけた時、鍵を外す音がし、戸がゆっくりと開いた。

「誰だね、こんな嵐の夜に」
 ランプを片手に上品そうな中年の男が顔を出した。
 熊みたいに大きな、ヒゲ面の山男でも住んでいるものだと決めつけていたが、意外にも細身で繊細そうな感じの男だった。
 男と目が合い、俺は一礼した。

「おや、旅人さんかね。いったいどうしたんだね?もしかして、この大風に寝食に困っているのかな?」
 男は俺たちを観察するように見た。頭から足の先までビショビショの、さぞかし憐れな旅人に見えることだろう。
 自分はどんな姿になっているかは知らないが、アルなんてかなりショボくれている。

「ははん、図星だね。お入りなさい」
 男は一人で納得したように笑みを浮かべ、道を譲るような格好でうやうやしく、戸口へと俺たちを招き入れた。
 それに素直に従い、軽く頭を下げて戸をくぐる。濡れたまま入ってイイのか一瞬とまどったが、男は、いとわしくない様子だった。
 すぐに足元の石畳に水溜まりができ始めた。

「風邪をひいてはいけないから、早く着替えたまえ」
 そう言いながら男は部屋の中央へ火を起こしに行った。自分で全部するところを見ると、どうやら一人で住んでいるらしい。家人も見当たらない。

 家の中に区切りは一切なく、高い天井の大きな一部屋になっているみたいだ。わりあい、空間自身は広い。
 だが、薄暗く浮かび上がる部屋の様子は、まるで物置のように物だらけだ。おそらく男は画工なのだろう。何枚も立てかけられた絵や画架、石像なんかも所狭しと置いてある。
 無造作に置かれた道具類の間を通り抜け、点けてもらった火のそばへと行く。

「どうせ荷物の中の着替えなんかも、ぐっしょりなんだろう?僕ので申し訳ないが…」
 男は言いながら部屋の隅のタンスから服を引っ張り出してきて、火のそばの長椅子へ適当に並べた。

「これで存分にオシャレを楽しみたまえ」
 ナハハと楽しげに笑いながら、軽い足取りで何かをしに部屋の隅へと向かった。
 よほど来客が嬉しいのか、男は楽しそうにしている。よく分からないが、面倒見のイイ人みたいだな。
 と、並べられた服を見る…オシャレか。全部、寝間着じゃないか…。

 動くことをやめると急に身体が冷えてきた。張りついた重い服を脱ぐ。服と一緒に貸してくれた手ぬぐいは日なたのにおいがした。
 さすがに下着は借りるわけにはいかないだろうから、冷たいが水気を取るだけで我慢する。着てりゃ乾くだろ。

「下着も貸そうか?」
 遠くから男が言った。からかうようにニタニタ笑う雰囲気が伝わってくる。

「遠慮しておく」
 すかさず断り、そのまま寝間着を羽織った。

 男は遠目にも判るほどの汚れがついた服を着ている。汚れは絵の具か何かなのだろう。いろんな色をしているのが見て取れる。
 歳は五十代くらいだろうか、白髪と黒髪が半々くらいで混ざっている。顔つきは穏やかで陽気そうだ。

 ふと、横にいるアルを見ると、もじもじといつまでも着替えずにいた。

「馬鹿。何してんだ」

「いや、シャレやなくてハラ具合が…あの〜、すみません、便所、どこですか〜?ちょっと腹具合、悪いんですけど…」

「冷えたのだね。こっちだよ」

「めっちゃヤバめやから、ちょー、便所行ってくるわ。ついでに腸も出してくるわ」
 いつものことだが、頭もハラも弱い奴だ。まったく、困り者だな。

 アルは男について玄関とは反対にある戸から出て行った。

 とりあえず、荷物を乾かさなきゃなんない。中身を火のそばの椅子へと並べる。

「大変だねぇ。どこから来てどこへ行く途中なんだね」
 戻ってきた男は茶の道具を持ち、話しながらそばへ寄ってきた。

 ティティスへ何をしに行くかは、おいそれと他人に言うわけにはいかない。親切そうな男だが、まだ信用はできない。やはり、ティティスの名前は出さないほうがイイだろう。

「ヴァーバルの首都からレジナへ行く途中だ」
 男は盆ごと茶の道具を机へと置き、俺の向かいの椅子へと腰を下ろした。

「へぇ、レジナかね?しかし、ここじゃ、ヴァーバルとレジナを結ぶ街道からは、だいぶズレているが…」
 男は口元には笑いを浮かべているが、目元は笑わせないで言った。

 たしかにレジナへ行くには、もっと南の街道を使うのが普通だ。ティティスが栄えていた時代の名残で、今はうらぶれてしまっている旧街道を使ってレジナへ向かう旅人なんて皆無に等しいからな。
 俺は応えずにいた。男は火にかけてあった湯を使って茶をいれた。かすかに花の香りがする。

「はは。実のところは伏せておくつもりかね。もしかして、僕は信用されてないのかな?」
 態度を察した男は屈託もなく笑って茶を飲んだ。湯飲みを口につけたまま、もう片方の手で俺に茶を勧める。
 俺はそれに従い、湯飲みを取る。薄い陶器に入った茶に指は居場所を失い、思わずあわてて机へ置き直した。
 それを見た男は微笑んだ。くっきりとした二重の、大きな人懐っこい目が印象的だ。

「あのね、今はレジナ領になっているが、昔はティティス領だったのは知ってるかね?」
 疑うのをやめたのか、鎌をかけてきたのか、男は俺の出方に合わせて話を進めてきた。

「聞いたことはある」

「そうかね。ティティスはね、十年くらい前に帝国に滅ぼされて、廃墟があるだけなんだよ。もちろん廃墟には何も残ってないがね」
 一般的な街道からあまりにも外れて旅をしているし、あいまいな態度だからか、俺は廃墟荒らしだと思われているようだ。

「でも、十年も昔の哀しみが住むと人は言うがね。…それに、出るんだよ」

「ただいま〜。全部ヒリ出してきたで!」
 アルが戻ってきた。いつの間にかブカブカの寝間着に着替えている。

「こらこら、人の話のイイところで、まぎらわしいことを言わないでくれよ」

「何がですか?」

「いやいや、こっちの話だよ。ティティスの廃墟の話をしていたんだ。ウワサでは廃墟に王族の幽霊が出るそうなんだ」
 男は両手を胸の前でダラリとやり、幽霊のマネをしてニヤリとした。
 やはりそうきたか。嫌がらせか悪戯か、俺たちを廃墟に近づけたくないのかは知らないが、幽霊話とは子ども騙しだな。

 …と、アルを見ると、生唾を飲み込み、真剣に怖そうな顔をしている。また臆病が始まったな。アルによけいなことを聞かせやがって。

「ははは。あ、そうだ。自己紹介が後れたね。僕はセレと言います。見てのとおり、しがない画工をやってます。君たちは?」
 俺は自分の名前と、ついでにアルの名前を告げた。

「そうかね。さあ、二人とも、メシでも食うかい?」
 セレはアルを怖がらせておいて、嬉しそうにメシの支度をしにいった。
 薄情な男だ。


………

 メシを食わせてもらい、ようやく人心地がついた。おかげで身体もすっかり温まった。

 部屋から運び出せるのかというくらい大きな画布にセレは向かっている。

「何でセレさんは、こんなとこに一人で住んではるんですか?」
 アルが湿った服を火にかざしながらセレの背中へ向けて言った。

「う〜ん、何ていうのかな、厭世というか、世を儚んだというか…分かるかね?早い話が人間なんていうものが面倒になったのだよ」

「ふぅん。そうなんですか。せやったら、俺らはイイんですか?いちおう、人間ですよ。芋にでも見えますか」

「ははは。そういう意味じゃないんだけどね」
 黒くて細い棒を左手で上からかぶせるように持ち、腕の大きな運びで豪快に描いている。右手につまんだ白い物で画面を払う。

「それ、何ですか?」
 アルは乾かしていた物を椅子に放り出し、セレの横まで行って手元を覗き込んだ。
 セレは手を止めて顔を上げる。

「これかね?木炭とパンだよ」

「パン??食べ物のですか?」

「そうだよ。これで消したり、画面の調子を調えたりするんだ」

「あと、食べるんですか?だって、もったいないでしょ。食べ物を粗末にするんはダメですよ」

「ちゃんと食べるよ、僕じゃないがね」

「ふうん」
 アルは釈然としない様子で戻ってきた。

「ところで、君らはティティスへは行くのかね」
 セレは背中で言い、腰かけたまま画布から身を引いたり、首を傾けたりしている。
 俺が、はぐらかしたもんだから、何としても本当の目的を知るために鎌をかけてきやがったな。まあ、そんな手には乗らないが。

「ティティスですか?廃墟まで行きますよ〜。城の廃墟まで王女様の肖像画、取りに行くんですよ!イイでしょ〜?」
 アルは目を輝かせて、みじんのためらいの色もなく答えた。
 …馬鹿、簡単にバラすなよ。せっかく隠していたのに。誰彼かまわずペラペラとしゃべりやがって。

「ふーん、そうなのかね。肖像画か…」
 アルは菓子を頬張ってボリボリ噛みながら、セレのつぶやきにソラでうなずき返した。
 セレは今までと変わらないいたずらっぽい声だが、何か含んでいるように思えたのは俺の考え過ぎだろうか。

「でも、城は手ひどく荒らされているだろうから、元の場所にかけてあるとイイがね…」
 宙を見つめながら、感慨深そうにつぶやいた。それに合わせるかのように風が木々をざわめかせた。

「さあさ、もう寝なさい。お化けが出るよ」
 セレは立ち上がり、幼児でも扱うかのように手を叩きながら言った。そして、振り返ってアルを手招きする。

「はいはい、君はここで寝なさい」
 部屋の隅にある簡素なベッドを指差す。部屋というか、家の中にはベッドは一つしかない。たぶんセレの寝床だろう。

「そして、君はこっち」
 今度は俺を手招く。そして、部屋の隅の物置みたいにいろいろと積み上げられた床を指差す。たたんだ毛布がポツリと置いてある。

「すまないが、君は非常に豪華な寝床だ、許したまえ」

 俺は言われたとおりの場所へ行き、たたんである二枚ある毛布を広げて一枚を床に敷く。その場に寝転んで毛布をかぶる。
 雨風はかからないから贅沢は言わないでおくが…何だかよく分からない差別を受けているようだな。

 八つ足さえ出なけりゃどこでも眠るが…いや、待てよ、目の前の家具と家具の隙間に糸の巣があるじゃないか…大丈夫だろうか。


………

 ここはどこだ。

 …そうか、画工の家か。泊めてもらっていたんだ。

 まだ風がものすごく強い。戸板が風に鳴る音で目が開いてしまったか。
 まだ暗いようだけど、目が開いたついでに用でも足すか。

 身体を起こすと、俺の足の方向にあるベッドで眠るアルと…画布に向かうセレのうしろ姿が目に入った。俺たちが眠る前に描いていた物と大きさが違う。
 寝ていたから分からないが、たぶん今は夜中だろう。こんな時間に何を描いているんだ。

「こんな夜中まで描いてるのか」
 俺の声にセレは手を止めて振り返った。

「起きたのかね」
 セレは言った。俺は立ち上がってセレのうしろへ歩み寄った。

 アルは眠っている。その腹から足にかけて、薄橙色の小さな花がついた植物が身体に立てかけられている。きんもくせいだ。かすかににおいもする。
 アルの足のほうにはロウソクが十本くらいある燭台が置かれていて明るい。

「彼を見てると無性に描きたくなってね。疲れているのか、よく眠っておられるよ」
 俺が近づくと、セレは画面を見たまま言い訳のように言った。どうやら本人は気づかずに眠っているみたいだ。無断で描いているんだな。

「君は、絵は描かないのかね」

「描かない」

「絵はイイ物だ。描いた人間が死んでも、絵はいつまでも生きるのだから。また、描かれた人物が死んだとしても絵の中に生き続けられるんだ」

 ペン描きか何かの細い線の上にサラサラと色を重ねて載せている。宵の口に使っていた道具とは違うようだ。

「君たちは若いから、まだまだ生きるだろうけど、今の君たちは、もういなくなる。二度と今という時はないんだよ。…画工の使命かな、こうして、この平らな空間に時を止(とど)めておくのは。時なんて砂みたいにサラサラと足早に逃げてゆく」

 ひとり言のようにそう言い、それから筆を口に横向きにくわえる。小瓶から色のついた砂みたいな物をサラサラと小皿に出し、ノリか何かを足して筆で混ぜた。

 時を止(とど)める、か。肖像画なんて物もそうだな。描かれた者は何年が経っても老けるこたぁない。

 セレは振り返って何かを手渡してきた。憑かれたように手を差し出して受け取ると、手には小さな砂時計が載っていた。
 空色の細かな砂が入っている。意識せずに砂の詰まっているほうを上にする。
 手近な椅子を引き寄せ、座る。

 ロウソクの灯が砂の向こうに見える。細い胴を通って、決して直接触れることのできないガラスの中で、時を刻む砂がきらめきながら流れ始めていた。

「砂時計はね、時間が経つと、きれいさっぱり砂が反対側へ行くだろう?時の吹き溜まり、というのかな」
 セレの道具が並んでいる机に、流れるままの砂時計を置いた。見る見る砂は積み上がってゆく。

「人の人生も、砂時計のように元に戻すことができれば、と思うことがあるよ…悔いるような生き方をしている証拠かな」
 セレは折ってまくり上げた袖を手持ちぶさたに折り直しながら笑って言った。

 今のところ、俺は悔いるほど長くは生きてきていないが、この先、悔いることもあるのだろう。

「こんな詩がある…時の中にあるものは、永遠(とわ)には止(とど)め置けない。栄える国も、鏡の中の私も。風が岩山を削るように、波が岸壁をさらうように、砂つぶのごとく、少しずつ、少しずつ、時という風に削り取られ、小さくなって、やがては元の風になる。栄華も、私も…この詩にどこかで出会ったら、僕のことを思い出してくれたまえ」
 セレはそう言ってから、もう一度ゆっくりと詩をそらんじた。

 出会えるかどうかは分からないが、とりあえずうなずき返した。誰が書いた詩か分からないが、何となく儚げだな。

 ところで、この絵は完成したら本人にやるんだろうか。

「できた絵は本人にやるのか」

「いいや、僕がいただきたいのだよ」
 セレの声は嬉しそうな笑いを含んでいた。
 アルは被写体としちゃ悪くはないだろうけど、取り立てて持っておきたいほどのモンだろうか。それとも、泊めた奴を記念に描き取る趣味でもあるんだろうか。

 眠るアルが白っぽかった画面に、鮮やかな色彩で描き取られてゆく。
 水色の寝間着に映える緑と薄橙色のきんもくせい。燭台の光と、その対する深い陰。
 最近、何だかクセっ気の出てきたバサバサの毛。巧いもんで、どこから見てもアルだ。そりゃそうだろうな。肖像画を描くのが画工の仕事だ。

「君に、僕からのお願いがあるんだ」
 時を忘れて筆さばきに見とれていると、セレは急に口を開いた。

「ずっと、君がエアリアル君を護ってあげてくれないか、何があってもだ…できるかね?」
 どうしてそんなことを言うのだろうか。変なことを言う人だ。

 何があってもか…アルは俺がいなけりゃ何をしでかすか分からない頼りない奴だ。自負じゃないが、俺がいる時くらいは最低限のことは面倒を見てやっているつもりだ。

「友は大切にしなくてはならない。…それが僕からのお願いだ」
 応えずにいると、セレは座ったまま身をねじって振り返り、少し淋しげな目で俺を見た。セレという人は陽気さの下に、どこか淋しさが見え隠れする。こうして世捨て人にならなくちゃならないような、何か哀しいことでもあったのだろうか。

 セレは前へ向き直り、筆を持つ手をヒザに下ろした。顔は見えないが、その動きを止め、一点を見つめているようだ。

 忘れていた風の音が聞こえ、それに合わせて隙間風が身体に感じられた。炎が強くゆらめく。

「僕は大切な友を戦で亡くした。彼は僕を逃がし、救ってくれた。だけど、僕は彼に何もしてあげられなかった。生命を救うなんて大それたことではなく、悩みを…心さえも分かってあげることができなかったんだ。…それに今でもさいなまされている。君もね、後悔しなくてもイイように、友を大切にしなさい」

「分かった」

「ありがとう。さあさ、起きられなくなるといけないから、早く寝なさい」
 そう言われて、眠っている途中だったことを思い出した。用を足そうと思っていたが急に面倒になった。

 そのまま床の寝床へ戻る。

 寝転ぶと、熱心なセレの背中が逆光に見えた。見ないように反対へと寝返りをうつ…何だか哀しい、知らない昔が見えるようで、俺にまで哀しみが移ってきそうだった。


………

「こら、お寝坊君。日が暮れるよ」

 しまった。寝過ごしたか!…起こしもせずにアルは何してんだ。今日はアイツまで寝坊か?

 目を開けると、目の前には見知らぬ男が…誰だっけ??

 …セレか。しゃがんで俺を見下ろしている。

「日が暮れるというのは冗談だけど。いつまで寝る気かね、君は。もうエアリアル君は起きているよ」

「やっと起きよったわ。永眠してはるんかと思た」
 身体を起こし、声のほうを見ると、荷物の片づけをしているアルが視界に入った。すでに起ききってスッキリとした顔をしている。早起きだけは得意な奴だな。

「さあ、エアリアル君、行こうか」
 俺が起きたのを見届けたのか、すぐに二人は何かを持って玄関から出ていった。

 そういや、夜中にセレと話したような気もするが、夢だったのだろうか。やけに現実味のある夢だったな。

 毛布を簡単にたたむ。

 とりあえず顔を洗う水を求めて同じ戸から表へと出る。まぶしい朝陽が目を射り、途端に大きなくしゃみが二つ出た。
 日のあたる場所へ出て空を見上げる。昨日とは打って変わって良い天気になっていた。快晴というヤツだな。
 空は青いのに、差す朝の光は何ともいえない橙色に感じられる。そのせいか、ゆったりとした穏やかな空気に包まれている。

 少しひんやりとした澄んだ空気に甘いにおいが混じっている。
 見渡すと一面に、きんもくせいの木が立ち並んで長い影を作っていた。昨日、嵐の中の暗がりで見た木はこの木だったのか。ものすごい数で、強い芳香を放っている。

「すまないね。君の水を用意するのをすっかり忘れていたよ。水はこっちだ」
 玄関右手、建物の角からセレが顔を出して手招きした。

「すごい数のきんもくせいだな」
 セレに歩み寄りながら俺は思わず言った。

「友の好きだった花だ」
 それだけ言ってセレは静かに微笑んだ。

 …友か。どうやら昨夜の話は夢じゃなかったみたいだな。

 セレは再び手招きをしてから歩き出した。それに続いて家の角を右手へと曲がる。
 セレは立ち止まり、昨日渡った水路を指差す。まだ水かさも多くて流れは激しい。それに少しにごっているようだ。この水を使えというのだろう。

 水路のほとりでアルがしゃがんで鳩にエサをやっていた。灰色の鳩が数十羽は群がっている。あいかわらず鳩にエサをやるのが好きな奴だな。
 それを尻目に顔を洗う。この季節、もう水は冷たい。そういや、拭く物を持って出るのを忘れた。
 手で顔の水をぬぐって落とす。口をすすぐと心なしか、においのせいなのか水が甘く感じられた。だが、案の定、ジャリッと歯に砂が当たる。

「なぁ、セレさんな、鳩、飼うてはんねんで」
 アルは持っていたエサをまきながら俺に言った。手にしているのは、ちょっと薄汚れたパンだ。なるほど、絵に使っていたパンか。

「上に鳩舎あんねんで。これ、みんなセレさんトコの子ォやって」
 アルが屋根の上を仰いだ。それにつられて上を見遣ると、たしかに屋根の上には小さな小屋が取って付けたようにあった。

 と、その時、一羽の鳩が突然に翔んだ。それに続き、あわてて次々と翔び立つ。あっという間にすべての鳩が翔び立ってしまった。

「うわ、何やねん。みんな、おらんようなってもた」

 堂々とした姿のネゼロア山脈を背景に、鳩の一団が大きく環を描いて旋回し始めていた。

「あ〜あ、まだパン食べんの途中やったのに。あれ、何してるんですか…?」
 アルはポカンと口を開けて空の鳩をながめながらセレに問いかけた。

「僕には分からないよ。機会があれば鳩さんに聞いてごらんなさい」
 セレは悪戯っぽく笑った。

 俺が起きるのが遅かったのか、そろそろ陽も朝の色合いをなくしてきた。廃墟までは、そう遠くないらしいが、俺たちももうすぐここを立たなくてはならないだろう。




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