クェトル&エアリアル『血の記憶』#1

第5話『血の記憶』

 

▲作者より愛をこめて
 







私は貴族でした。今は落ちぶれてしまっています。

私には妻があります。しかし、病を得ており、久しく床を抜けることができずにいます。

細々と畑を耕してはいますが、何せ逼塞(ひっそく)しているので、食べるのにも事欠く毎日でした。

やがて、妻の病状が思わしくなくなりました。しかし、食べる物も底をつき、いよいよ最期と思われたある日、旅人が一人、迷い込んできました。ただ一夜の宿を借りに来たのでした。

真夜中、眠る旅人を見て、私は悪い心が起きました…この人の血を妻に与えよう、と。

思ったとおり、すっかり旅人の血を飲み干した妻は少し元気を取り戻しました。

私は思い出しました。私たちは古く吸血鬼一族だったことを。

それから私は、近くの街道を通る旅人を言葉巧みに招き入れ、その血を妻に与え続けました。

その度に妻は元気を取り戻しました。その上、だんだんと若返っていったのでした。

今日、招き入れました、何も知らない二人の旅人が二階の部屋で休んでいます。

旅人は兄弟のようです。

私は、なるべく音を立てないように階段を上がります。でも、古い階段はきしみ、ぎしぎしと音を立てます。





(1)


近くを通ると、木の低い所に止まっていた蝉が鳴き声を立て、小便のようなしぶきをまき散らして飛び立った。

見上げると、怖いくらいに青い空が支配し、つかめそうな入道雲が山の端(は)を飾っている。

肌の剥き出しの部分を今は真上にある太陽の光がジリジリと灼けつかせる。

歩いているだけで乾くひまなく流れ出る汗。毎日のことだが、今日は普段にも増して喩えようもなく暑い。ザッと夕立でもあって涼しくはならないものか。


じっちゃんの友だちであるオヤジさんの所へ、たまに早朝から借り出される。

オヤジさんは嫌いな人ではないけど、こき使われるのがツラい。じっちゃんの仲の良い人だから文句は言えないが。

郊外から目抜き通りの市場まで荷物を運んで店番を手伝わされ、さっきやっと解放されたところだ。


暑さも手伝ってめまいがする。夜明けのだいぶ前の時刻にいきなり借り出されたもんだから、寝不足で頭の芯は石でも入っているみたいに重い。

ハラが減ってはいるが、とにかく気分が悪い。メシを食うより風呂でも浴びて…いや、焚くのも面倒な話だ。適当に行水でもして、自分の部屋で明日の朝まで眠りたいところだ。

だけど、明日もまた早朝からオヤジさんに借り出される。


石畳の坂のてっぺんから陽炎が立ち上り、向こうに見えるはずの景色をぼんやりとしたものにしていた。

こんなに暑いと、よほどの用でもないかぎり出歩く馬鹿はいないだろう。途中、日陰で伸びて寝そべる犬しか見かけなかったくらいだ。

いつもなら街で一番にぎやかなはずの筋を抜け、ちょっと静かな区域へ入る。 やっと着いた。表通りに面した玄関の木戸を開ける。

「おっ!おかえり。今日は、ずいぶんと早かったじゃねぇか」
開けてすぐの場所で掃き掃除をしていたじっちゃんが手を止めて早口に言った。

「ただいま」
俺は吐く息と同時にそれだけを言い、真っ正面に見える応対台の左手に並ぶ廊下を目指して最後の力をふりしぼる。

二、三歩歩いて何気なく右を見た。居間の戸が開いていた。筒抜けになっている居間の机には親父が構えていた。今日は嫌な人が帰っている。

書斎にこもらずにこんな所にいるということは、説教をするために、俺が帰るのを待っていたのだろう。たまに帰ってきたかと思えば、俺の顔を見るなり説教が始まる。もうたくさんだ、聞きたくもない。

親父を無視し、あいさつもせず通り過ぎることにした。

「ここへ来て座れ」

机の書類を見たまま目も合わせずに言う親父の声に捕まった。気難しそうな表情…また始まった、面倒なお説教が。

仕方なく俺は、身体の疲れとはまた違った重い足取りで居間へと入る。

机を挟んだ向かいの椅子へぞんざいに腰かける。

「お前は、いったいどう考えているのだ」
親父は目線を落としたまま開口一番そう言った。予想どおりだ。

何度も何度もうるさい。どう考えているも何も、親父みたいな騎士になりたいなんて、これっぽちも思わない。

「騎士の子なら騎士として国主様にお仕えするのが本筋だ。お前は兄とは大違いだ、出来損ないめ」
俺の顔を一瞥し、冷たい表情で目を伏せた。

また兄貴を引き合いに出してきた。兄貴は中央帝国にいるんだか何だか知らないが、俺は騎士が偉いだとか王侯貴族に仕えりゃ名誉だとは思っちゃいない。

冗談じゃない。出来損ないだと言われる覚えはさらさらない。

「じゃ、騎士ってどういうもんだ」
俺が問うと、親父は手を止めた。

「言うまでもないだろう。忠誠、礼節、名誉、信義だ」
目も上げずに無感情に言い、また書き始めた。

信義?母さんの死に目にいてやるのも信義…道徳じゃないのか。親父はそれを怠ったじゃないか。

「信義か。家族の死に目にも会わないようなのが信義なら、騎士って何だ?俺は、そんなくだらないものにはなりたくもない」

「お前に忠誠心というものはないのか?君主様あっての、我々、民だぞ」
親父は呆れ顔で言い放った。

忠誠忠誠って、何が一番大切だってんだ。君主に対して忠誠心がなけりゃ人間じゃないってのか。

「なら、親を敬ってなけりゃ生きるなってことと同じか」
俺の言葉に親父は黙っていた。

それと、俺は知っていた。親父は俸禄をこれっぽちも家へと入れないことを。何につぎ込んでいるやら疑わしい。用途も明かさずカネを自分一人で好きなようにして、それでも家族と言えるのだろうか。

「聞きたいんだけど、いったい親父は俸禄を何に使ってんだ。俺には言えないような使い方でもしてるのか」

疑問に思い続けてきたが、口に出すのは初めてだった。

「何に使おうが私の勝手だ。いちいちお前に告げる義務はない」

自分のことは何もかも隠して、どうして何を聞いても答えようとしないんだ。そんなに干渉されたくないなら、逆に俺にだけうるさく干渉するのは矛盾していないか?

親父は眉一つ動かさず、冷ややかな態度をくずさない。それを見て、何とも言えない怒りが込み上げてきた…言葉が、言ってはいけない言葉が胸の奥から飲み込めない所まで滑り出てくるのを感じる…。

「…カネを家へ入れないのも、めったに家へ帰ってこないのも、外に女でもいるからじゃないのか。親父にとっちゃ死んだ母さんや俺のことなんて、本当はどうだってイイんだろ!」

出たのは長く胸につかえていた塊だった。次に何が返ってくるのかを分かっていて、俺はそれを吐き捨てていた。

親父は立ち上がり、にぎった拳で俺の左頬を殴った。鈍い衝撃と共に目の前が一瞬、真っ白になる。

とっさに机へついた両手に力を込めて立ち上がり、親父をにらみつける。左手は固くにぎりしめていた。

「何だ。やるのか?」
親父は澄まして座り、俺へ向けて薄笑みを浮かべて挑発してきた。

反射的に親父の胸ぐらにつかみかかる。素手ならば、五十も越えた男に勝てる自信はある。

「こら、お前!そりゃ、やり過ぎだぞ!何も殴るこたぁないだろ。クェトル、お前は言い過ぎだ」
じっちゃんがほうきをにぎったまま慌てて駆け寄ってきた。

「クェトルは父上の息子ですか?この子は私の息子です。口出しはしないでいただきたい」

「そりゃそうだが…だけど、頭ごなしはイケねぇな」
じっちゃんは俺と親父との間に分け入り、胸ぐらをつかむ俺の手首をつかんだ。俺たちを交互に見て諭すように言った。

血の味がしていた。悔しい。 殴り返してやりたい衝動を無理に身体の奥へ奥へと押さえ込んで歯を食いしばる。奥歯がギシリときしむ。

分からず屋のうるさいクソ親父め。自分の考えを押しつけるだけで…結局は決めつけるだけで、俺のことなんて想ってもいないんだろ。

やり場のない悔しさに目を伏せて居間を飛び出していた。じっちゃんが何か言ったが無視し、階段を一段飛ばしで駆け上がる。やけに大きな足音が心を掻きむしった。

上がりきった場所で、黒い物が寝そべっていた。眠っていたサンが驚いた顔で俺を見た。

立ち止まってしゃがみ、両手でサンの脇をすくって抱き上げる。首周りの毛にうもれた顔の金色の円い目で俺を見て、迷惑そうに「ニャー」と、ひと鳴きして目を細めた。

そのままサンを片手で肩に抱き上げ、自分の部屋へと入る。

壊れるくらい、戸を思いきり閉める。

サンの脇を両手でつかみ直し、寝台へ仰向けに寝転んだ。目の前には嫌そうに細める金色の目がある。

「…お前はイイな。自由で」

言葉をかけると、目を糸のようにした。

本当にそうだ。猫なら騎士にならなくてもイイし、何をしていても親父にとやかく言われなくても済むだろう。

サンを胸の上へ置くと、そのまま丸くはならなかった。床へ飛び降り、自分の背中をなめて毛繕いを始めた。そんなに迷惑だったか?


枕元から強い日差しが照りつける。ちょうど真上に日が見える。

起き上がり、あまりの暑さに上服を脱ぐ。

脱いだ物を丸めて、腹いせに壁へと投げつけた。勢いもなく壁に当たって広がり、虚しく舞い落ちた。

再び寝転ぶ。カーテンを引けば良かったが、わざわざ起き上がるのも面倒だ。まぶしさに額に手をかざし、目を閉じた。

近い木のにぎやかな蝉時雨が耳にうるさい。今の気持ちとあいまって身体中がイライラする。


俺の身の振り方は俺が決める。いくら親だからといって決めつける権利はどこにあるってんだ。自分がそうだからといって、いつも俺にまでその考え方を押し通そうとする。

本当に俺のことを大切に思っているのだろうか。ただ、自分の思いどおりにしたいだけじゃないのか。俺は親父の私物じゃない。

それに用水路じゃあるまいし、決められた道を歩むことだけはしたくない。じっちゃんの口利き屋のほうが俺は性に合っているし、軍事に携わりたくなんかない。


十年ほど前、母さんが危篤だった日、親父は容体を知りながら公用を優先して家を空けていたと聞かされている。

家族をないがしろにし、俺に対しても常に冷たく接し…まるで遠い昔に心というものを捨ててきたみたいに温かみを否定する人間だ。

その親父に『鋼のように強く、氷のように冷たい心を持て』と叩き込まれてきた。

親父は平気なのだろうが、第一、俺は刃をにぎり、人を殺めたくもないし傷つけたくもない。それは臆病で卑怯なのかも知れないが、嫌なものは嫌だ。

だから今まで、親父が剣の稽古をつけようと迫ってきても逃げ続けてきた。以前には筋が良いなどと言って熱心に口説いていた親父も、最近は半ばあきらめかけているのだろう。

いっそのこと、いなかったものと思って、俺のすべてを早くあきらめてはくれないだろうか。ご立派な兄貴殿を一人息子だと思やぁイイんだ。


ジリジリと蝉がうるさい…蝉が…。



蝉の声が聞こえる。

静かに戸の開く気配がする。誰だ…?じっちゃんが呼びに来たのか…それとも親父か。

気配が近づいてきた。

身体が重い。起きるのが面倒だ。声をかけられたくなくてタヌキ寝入りを決め込む。

ソレは、すぐそばまで来た。手だろうか、静かに俺の胸の真ん中へ置かれた。温かい手だ。

そのまま探るように、こねるように、剥き出しの身体を上へと這う。汗ばんだ肌にねっとりとからんで不快だ。

ゆっくりと鎖骨の中心を通り、鎖骨を左へと伝い、肩を撫でる。喉首をつかむように手をすべらせてゆく。

遠慮もなく、やがてあごと下唇にまで触れる……誰なんだ、気味が悪い!

あまりの気持ち悪さに我慢できず、意識して口を閉じる。すると、触れていた感触がスッとなくなった。いったい何だったんだ…?

「起きんかい」

ふいに聞き覚えのある声がした。アルだ。今起きたふりをするため、わざと寝ぼけたふうに目を開ける。

「何だ。うるさい」

「まだ夕方やで。外、まだ明るいがな。お前は今ごろから寝るんか?」

寝転んだまま見上げると、アルがしかめっ面で俺を見下ろしていた。

何の用で来やがったんだ。夢じゃなかったらコイツが触ったのか?気味が悪かったが、夢うつつで本当に寝ぼけていたのだとすりゃ自分が恥をかくだけだから何も問わずにおいた。

「そーそー。あのな、おもろい本、借りたから、おすそ分けに来たんやけど。吸血鬼の出てくる怖い話やねん!」
嬉しそうにニタニタして言った。

またくだらない用で来やがったんだな。字など、そんな面倒な物は読みたくもないし、今はお前の相手をしてやれるほど穏やかな気分じゃない。

「要らん。帰れ」

「えげつなー!そんなん言ーなや。暑い中、せっかく歩いて来た人に言うセリフちゃうで」

この炎天下、コイツは日にも焼けずに生っ白い顔をしている。皮膚が弱いだの、身体が弱いだのと言っているが、白い以外は至って健康に見える。

真夏だというのに、暑っ苦しい真っ黒の長袖を着込んでいる。手には大きな帽子と手袋を持っている。


いつからだったか、コイツは絶対に手首より先と顔以外の肌を出さなくなった。それどころか、弾みで身体に触れようものなら、目の色を変えて怒ったことがあった。

よほど何か強い劣等感でもあるのか、病気で皮膚が痛みでもするのか、その避けようは病的だ。

でも、コイツは変な奴なんだと割り切れば気にはならなくなったが。

いや、劣等感じゃなくて、逆に気位が高いのかも知れない。気位が高かったり低かったり、変に自尊心が強いところが猫みたいな奴だ。そういや切れ長の吊った目も、どことなくサンに似ているな。


「ここ、どないしたん?…お父さん帰ってはったみたいやけど、また、しばかれたんかいな」
アルが自分の左頬を指差し、心配そうに問う。

言われてみて、自分の頬に触れてみた。少し腫れていて芯がある。熱をおび、押さえると鈍く痛む。その内頬に舌先で触れると普段にはない凹凸があった。

忘れようとしていた悔しい思いが途端に蘇った。

「うるさい!帰れ」

八つ当たりは嫌いだが、出口のない怒りを思わず目の前のアルに向けてしまっていた。

「何があってん!言えよ!」
アルは、そばの椅子に背もたれをまたいで前後逆に座る。ムッとした顔で背もたれにあごを乗せて俺をにらむ。

お前みたいなガキに言ったところで何になるってんだ。こんな何も考えていないような単純な奴に。クソの役にも立たないだろう。

口をとがらせたガキっぽい顔が懸命ににらみ続けている。猫のように気まぐれな茶色い目。本人は、にらんでいるつもりなんだろうが、迫力に欠け、どうもその顔はスネているようにしか見えない。

…何だか分からないが、火が消えてゆくように、いつの間にか気持ちは収まっていた。

「お前に悩みなんてあるのか」

突然の問いかけにアルはにらむのも忘れて目を円くする。高い眉がさらに高くなる。

「悩み?俺のンか?」

無言でうなずき返す。

「せやなぁ…ないなぁ。言われてみたら、なーんもないわ。ぜんぜん思い浮かばん。まあ、強いて言うたら今日の晩ご飯のおかずがキライなもんかどうかぐらいやな」

やっぱりそうだろ。気楽が服を着て歩いているようなものだ。

「お前も自由な奴だな」

「…も?俺以外にも誰かおるん?」
俺は壁ぎわのサンに目線を移した。自然、目で示すことになる。アルもつられて見た。

「もしかして、サン?」

俺は黙ってうなずいて見せた。

「俺とサンは、いっしょくたなんかいな」
俺の投げた服の上に座って耳のうしろを掻いているサンを見てアルは言った。

「同等なんて失礼だ。サンのほうが上だろ」

「まあ、そら、サンのほうが賢いけどなぁ。俺はネズミぐらいやし。…いや、蜘蛛ぐらい?」
アルはニタッと笑う。俺の皮肉にゾッとするような名前で返してきた。途端に寒気がした。足のほうがゾクゾクし、気になり始める。

「あっ!蚊ぁおるやろっ!かゆいかゆい!」
急にアルは大きな声を出して頬を掻き始めた。どうやら蚊に食われたらしい。

「ぼんやりしているからだろ」

「ボンヤリもヒンヤリもないわい。どうせ、お前は食われとらんのやろ!何で、いっつも俺だけやねん!ムっカつくなぁ!これやから夏は嫌いやねん」
そう言って辺りに目を配る。

しばらく剣豪張りの鋭い視線を宙に泳がせていたかと思うと、アルは突如、自分の服の腕を叩いた。

「やっぱり食われとる!これ見てみぃ、ほれ!ひひひ〜、ザマー見ぃ!かわいい俺のカタキ、取ってやったで」
得意げに手の平を見せる。見ると、たしかに蚊らしき黒い残骸の混じった血がついている。

「ああ」
俺は投げやりに短く応えた。こういう時は返事をしないとコイツは引かない。

服の尻で手の平をはたくアルの影が長く伸びている。眠っている内にだいぶ日は低くなり、部屋の奥まで橙色の光が差し込んでいた。


涼しげなヒグラシのよく通る声がしている。

何だか、なつかしい思いにとらわれる。いつの、どこでだったかは思い出せないまま無情にも指の間をすり抜けてゆくように消えてしまう感覚。たそがれの色あせた時が静かに流れていた。

こうしている間にも儚い時間を過去へと流してしまっているのだろう。 何の縁(えにし)か、生まれも育ちもぜんぜん違うアルと、ここにこうして今の時を共にしている。

出会って八年が経つ。俺は十七、アルは十四…知らない間に、お互いこんな歳になっていた。冬の入り口には二人とも歳も増える。

だが、いつまでもこうして二人、寄っているだろうか。明日も、来年のこの日も、十年後の今日も。いつかはまったく違う場所で、互いに違う時間の流れに船を進めるのだろう。

友だと言っても、しょせんは他人だ。隠している部分があり、どこか一線を越えられない別々の囲いを持っている。


ふいに、何だかわけもなく虚しくなった。

ふと見ると、アルは無表情のまま何を考えているのか、俺の顔をぽかんと見ていた。

「何だ」

「…ん?ううん、何もないよ。お前の顔がおもろいから見とっただけや」

気楽な上に夢想家だ。どうせつまらないことでも考えていたのだろう。

目を閉じる。物売りの声が遠くでしていた。

「せやけど、エエやんか。ケンカできるお父さんがおるだけで。俺の父さん、もうおらんねんで」
何の前置きもなくアルはつぶやいた。そうだった。アルの親父は遠い国で、戦で死んだと聞いている。

だが、親父がいないのと、うるさいのと、どちらがマシだろうか。どうもその答えは出したくなかった。

「なぁ、何で騎士になりたないん。お父さんの言うとおり、なったげたらエエのに〜」
冷やかすようにニタニタした声で言った。

「簡単に言うな」

「いったい何が嫌やっちゅーねん。いっつも教えてくれへんやろ」

目を閉じていて分からないが、おそらくアルはふくれっ面をしていることだろう。

そんなことは話すのも面倒くさく、黙っていた。

「どケチ!いけず!もうエエわいな。わしゃ、もう帰りまっさ」
冗談めかして言う声に目を開けると、上の前歯を見せて変な顔をしたアルが椅子から立ち上がるのが見えた。


コイツは何をしに来ていたんだっけ…。だけど、腹立ちだけはサッパリと忘れていたということを、閉まる戸を見つめながら思い出した。 



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