(3)
やっとのことで帰り着いた。
扉の前で立ち止まり手の平で額をぬぐう。一呼吸おいてから玄関の戸を開けた。
カウンターの前に置かれた椅子に座っている白髪の老人が目に入った。椅子は横向きで、ちょうどこちらからは横顔が見えている。
客だろうか。肩までの髪はうしろへ撫でつけられ、地味で目立たない上下とも灰色の服を着ている。身体の割に大きい、ほとんど骨と皮だけの両手は杖の頭に添えられていた。
俺に気づいて老人は目を上げ、こちらを見た。目が合う。八十はゆうに越えているだろう。少し背中を曲げていて小さく見える。深いしわの刻まれた顔、その中でひときわ鋭い眼光。見るからに身のこなしに隙のない老人だ。
「おかえり!」
手を止めて帳簿から顔を上げたじっちゃんが俺を見てカウンターの向こうから笑顔で言った。
急に俺が現れたもんだから、老人は『コイツは誰だ?』とでも問いかけるような顔つきでじっちゃんのほうへ顔を向けた。
「お話の、次男坊ですよ」
じっちゃんは笑顔ですかさず答えた。話って、俺のことを話していたのか。
「あなたがラルス殿のご子息ですか。お話どおり、よく似ていらっしゃる。お初にお目にかかります」
老人は、しゃがれ声で言い、杖にすがってわざわざ立ち上がった。心もとない動作で俺のほうへ身体ごと向き直り、王宮の人間みたいな仰々しい礼をして寄越した。そんな礼をされると背筋がむずがゆくなり、身の置き場に困る。
親父を知っているようだが、何者なんだ。武人だったのだろうというのは雰囲気から判るが。
それにしても親父に似ているとは、もってのほかだ。社交辞令でも言われたくはない。
「おいくつですか?」
老人は俺を見上げ、いきなり聞いてきた。
「十七だが」
「お若い。まだまだこれからですな。ところで、初対面で何なのですが、お聞きしたところによると、あなたは騎士になることを拒んでらっしゃるそうですが、どうしてです?」
何だ、この爺さんは。『うるさい』と、ノドまで出かけたが、たぶん客だろうから、さすがに暴言は引っ込めた。
そんなことを何で他人に詮索されなきゃなんないんだ。俺が拒もうが何しようが、あんたには関係ないだろ。しかも、それは過去の話だ。親父は昨夜、俺をあきらめた。もう俺は自由だ。
見知らぬ老人をにらみつける。だが、老人のほうも簡単に退きそうにないようすだ。
なぜか自信に満ちた顔つきで俺を見上げ続けている。口元には少し笑みを浮かべているが、そのほとんど色もないような目だけは鷹が獲物を狙う時のようだ。まるで射られるように鋭い。
とても答えずには放してもらえそうにない。
「親父が騎士だからだ」
俺が仕方なく答えると、老人は目を少し細めて眉間のしわを深くした。
「父上がそんなにお嫌いなのですか。どうしてお嫌いなのです?」
声は一本調子だが、責め立てるように聞こえるのは、俺がひねくれて聞いているからだろうか?とやかくうるさい爺さんだ。
答えずにこのまま部屋まで逃げ帰ってしまいたい。まったく、昨日といい今日といい、うるさい人間を突破しなければ部屋へは帰り着けないのか。
親父のどこが嫌いかなんて、ひと言で言い表せるもんじゃない。けど、俺は親父の何を嫌っているんだ?言われてみれば、いったい何をだろう…自分勝手なところか、決めつけるところか…どうも違う。
「冷たいところだ」
考えたあげく、そう答えた。すると老人はスッと目を細めた。
「冷たいですか、父上は。あなたの父上は温かい、本当は優しい人なのですよ。ただ、心を閉ざしているだけなのです」
何を言ってんだ、この爺さんは。親父が温かい?優しい?閉ざしている?何のことだ。
「あなたに、このお話を請けていただくことはできませんか?この剣を届けていただきたいかたがいるのです」
しばらく黙っていた老人は、やがて表情もなくじっと俺の目を見据えて言った。
俺が黙っていると、老人は座ったままカウンターの上の濃い紫色の布をそっと開いた。中には柄の尻に赤い房飾りのついた細剣があった。それを手にして俺に見せる。だが、房飾りがついている以外は何の変哲もない、普通で地味な剣だ。見せられても仕方がない。
じっちゃんが老人の向こうで、老人に分からないように俺へ向けて目配せしてきた。ハイと言えということだろう。何だか分からないが、とりあえずじっちゃんの言うとおりにしたほうがイイんだろう。
「分かった」
俺が言うと、老人は静かに微笑んだ。
「かねがね思っておったことなのですが…私も老い先短い。心残りとなってはなりませんから。ぜひともお願いいたします」
老人は座ったまま少し背を正して、俺へ向けて深々と頭を下げて寄越した。大人に頭を下げられると違和感があって、何となくバツが悪い。
老人は手にした剣をじっちゃんのほうへ差し出した。じっちゃんは頭を下げ、宝でも賜るように恭しく両手でそれを受け取る。
「過ちは一瞬で犯せますが、償いは一生涯かけてもできないものです。あなたはまだ若い。立ち直れないほどの過ちは犯さないことです」
老人は布に包まれてゆく剣を見つめながらそう言った。
どういう意味なんだろうか。その言葉は俺へ向けて言ったのだろうが、あたかも剣へ向けて語りかけたかのようにも取れた。
じっちゃんの動作を見届け、老人は杖にすがって立ち上がった。じっちゃんに一礼し、重い足取りで一歩ずつ足を引きずりながら表口へと向かう。
すれ違いざま、俺の肩に手をかけた。その骨と皮だけの手は意外に力強く肩をつかんだ。そして、微笑んだのか、口の両端に力を込めて口元のしわを深めた。
老人を目で追うと、俺が閉め忘れていた戸口を出てゆくところだった。昔の姿が想像できない枯れ枝のようなうしろ姿を無意識に見送っていた。
老人が去ったあとの大路には、強い日差しの当たる誰もいない石畳に向かいの家の影だけが濃く落ちていた。
…何だったんだ、あの爺さんは。
「そういうワケだ。お前さんご指名なんだ」
カウンターからじっちゃんに呼びかけられて我に返った。
「誰だ、あの爺さんは」
「まあ、ワケあってお前さんには正体を言うわけにいかねぇが、昔、有名だった人だ。それだけ言っておくよ。それ以上は何も言わないからな」
じっちゃんは、そう言いながら備えつけの収納箱に細剣を大切そうにしまい、もどかしくて危なっかしい手つきで鍵をかけた。
ワケあってと言われるとよけいに気になるのが人情だろう。いったい何者なんだ。雰囲気、それにあの礼の仕方。黒か白かは分からないが、おそらく王の騎士だったのだろう。
「親父の知り合いか」
「ああそうだよ。…ととと、馬鹿!何も言わないって言ったろ。さっき揚げ物を食ったから、うっかり続きをしゃべっちまうところじゃねぇかよ。聞くな聞くな」
じっちゃんは自分の顔の前で片手を振った。どうして隠すんだ?
「それはそうと、詳しい内容のほうなんだけどな、この剣をだな、リザス国のオンという街にいる鍛冶屋のモントという職人に返すんだ」
「返す?」
「そうだよ。昔、その人から受けた物だそうだ。だから返しに行くのが、ご依頼だ」
「分かった」
俺が返事をすると、じっちゃんは満足そうに一つうなずき、吊してある帳面を手に取った。
あの爺さん、心残りだとか言っていたが、借りた物だったのだろうか。
ずっと爺さんの言葉が回り続けていた。過ち…何の過ちだろうか。この剣と関係があるのか?
リザスは山脈を隔ててヴァーバルの西に隣り合った国だ。地図を見ないと確かなことは分からないが、そう遠くはないだろう。
「そうそう、アル坊もつれていってやれよ。まあ、あいつは給料なしだが。路銀はワシのおごりでな」
じっちゃんは自分になついているアルをやけに気に入っている。もう一人の孫みたいに思っているんだろう。
あいつがいるとにぎやかでイイんだが、どうも変な奴だから、くだらなくてガキっぽい遊びにつき合わされるだろうし、口数が多くて安眠妨害される。
「ところでお前さん、夜中に父ちゃんとどこかへ行ってなかったかい?」
じっちゃんは親指の上でペンを回しながら、いきなり話の矛先を俺へと向けてきた。
「それにそのケガ。何かあったのか?」
じっちゃんは片眉を上げて俺の右手首の傷を指差した。とっさに隠してもよけいにあやしまれるだけだろう。親父のことをなぜかじっちゃんには知られたくなかった。
悟られないように細心の注意を払う。
「何でもない」
「何でもないって、それ、刃物の傷じゃねぇかよ。何でもないわけないだろ。父ちゃんか?」
じっちゃんは非難するような顔で眉をひそめて言う。鋭い。じっちゃんには隠し事もできない。
「サンに引っ掻かれたんだ。…じゃ、俺は準備にかかるから」
じっちゃんの追及を躱す。
「こら、待たねぇか!卑怯だぞ」
じっちゃんがカウンターから上半身を乗り出して大声で呼んだ。それには応じず、俺は足を止めなかった。卑怯だとは心外だな。だけど、弁解はしたくない。
………
ちょうど別の用事があって近くへ行った帰り、ついでにアルの家へ寄って仕事の話を聞かせてやることにした。
移民街へ入ってからそう遠くはない。大橋を渡って北へ少し上がった坂の多い静かな住宅街に住んでいる。貴族まではいかないが、移民の中でも上の下くらいの身分の人間が住む地域だ。
なだらかな坂を上がり、大通りの並び西角にあたるアルの家の前へ着いた。
昼過ぎだがアルはいるだろうか。ちょうど入れ違いで俺の所へ遊びに来ているかも知れない。
見上げると窓の小さな張り出しからあふれるように花が垂れ下がっていた。家の前には無数の小さな赤い花の咲く花壇が並んでいる。
通りには花壇のある家が多く、色鮮やかで華やいでいる。路も広い。俺の家の周り、下町とは景色がずいぶんと違うな。
その花壇の前で、汚れた作業着の小柄な中年男が掃き掃除をしている。かなり熱心だ。よく見ると雇われじゃなくてアルの叔父さんらしい。
アルを呼んでもらおうか。…だが、あまりにも熱心な背中に信念を感じて二の足を踏み、出かけた言葉を引っ込めた。
「あら、こんにちは〜」
ためらっていると、ちょうどアルの叔母さんが玄関の引き戸を開けて出てきた。俺を見つけ、日傘を広げる手を止めて愛想良く笑った。俺は頭を下げ返した。
「エアリアルに用なんでしょ?ちょっと、あなた、使て悪いんですけど、あの子、呼んできてください」
叔母さんは掃き掃除中の叔父さんを見つけて声をかけた。背中を向けて掃き掃除をしていた叔父さんは、その声にビクリとして手を止めた。
ゆっくりと振り返った叔父さんの顔を見ると…汗で滑ったのか黒ブチの丸メガネが鼻の頭までずり落ちて乗っていた。
メガネを通さず、上目遣いでシゲシゲと俺を観察する。
たしか叔父さんの年は六十前後だったハズだ。叔父さんには悪いが、どことなく戯画のネズミに似ていておかしみを覚える。叔母さんのほうはネコのようだ。
「はよ呼んできてください。はよ」
「…ちょっとワシ、今、手ェ離せやしまへんのや。あんさんが行きなはれや」
「私、出かけますのん分かりませんか?はよ呼びに行ってください、はよう」
しびれをきらしたように叔母さんは少し強い口調になった。だいぶアルで慣れはしたが、やはり移民街の言葉には違和感がある。早口だと何を言っているのか解らない時がある。
「はいはい、分かりました。今、呼びに行くよってに。そう急かさいでエエじゃろて」
叔父さんは迫力に負けて掃除をあきらめたようだ。ブツブツと何か言いながら壁にホウキを立てかけた。
だが、すぐにホウキは滑って倒れてしまった。またそれを拾い、今度は慎重に立てかけた。
…が、じょじょにホウキは滑り出し、結局は地面へと倒れてしまった。
叔父さんは、しゃがみ込んでホウキを拾った。そして、またそれを壁に立てかけようとしたのだが、叔母さんの刺すような厳しい視線に気づいてホウキを落とし、急ぎ足で玄関の中へと入っていった。
いつ見てもソワソワとして、どこか気の小さそうな人だな。たしか、高名な学者のハズなのだが…。
「いっつもエアリアルが、お世話んなってます〜」
叔母さんがホホと笑って俺へ向けて言った。
「いや、こちらこそ」
「ところで、今日もお仕事のお話で来ゃはったんですか?」
叔母さんにとってアルは実の子じゃなくても、大切な一人息子だ。ウチの仕事に借り出すことについて叔母さんはどういう感情を持っているのか正直なところ分からない。
露骨にイヤな顔をしてはいないが、感情を隠しているふうでもない。その厚化粧のにこやかな顔をくずすことはない。
「あの子、頼りないから、あなたが責任持ってしっかり見とってくださいよ〜。子どもやから何しよるか分からへんからね。…あ、悪いけど、もうちょっと待っといてくださいね。ほな」
俺が返事をするよりも早く叔母さんは早口で話を締めくくり、真っ赤な口の両端を上げて黒い日傘を差して早足に歩き出した。
叔母さんの健康そうなうしろ姿をぼんやりと見送っていると、家のほうがにわかに騒がしくなった。
「待たんかい!このクソガキー!」
「悔しかったら取ってみ〜ぃ」
十歳くらいの子を追いかけて、開け放された玄関からアルが飛び出してきた。アルに兄弟はいないから、字を習いに来ている子か何かだろう。ケンカをしているらしい。暑いのに元気なことだ。
「ちょー、待ってな」
アルが俺に気づき、こっちを見て言った。だが、俺に気を取られてアルにできた隙を突いて相手の子がアルの手にあった紙片を奪い取った。
「あっ!また取りよる!返せ!」
「い〜や〜。お前がボ〜っとしとるからやろ」
「年下のクセにお前とか言うなよ!エエわ、お前のお母さんに言うたるからな、怒られ」
「エエよ、先生に言うたるから。お前こそ怒られろ」
よく見ると相手の子の両頬には、つねったのかひっぱたいたのか、赤いあとがある。
「うるさいわい!また、お前とか言いよる!どーでもエエから返さんかい」
アルが詰め寄ると相手の子は風のように玄関へ走り込んでピシャリと戸を閉めた。すぐに鍵をかける音がした。
「ムカつくなぁ!」
アルは追うのをあきらめて叫んだ。どうやらケンカは終わったらしい。似た者同士、どっちもどっちだな。
「何や。来んの珍しいなぁ!何の用やっちゅーねん」
かたわらの俺に向かってアルは怒りの続きの不機嫌な声で言った。
「ケンカか」
「ケンカってゆーか、いっつもアイツが生意気やねん。意地悪いしな、困っとんねん」
お前も生意気で意地が悪いだろうが、と言ってやりたかったが、よけいに当たられたくはないから口に出すのはやめた。
アルは赤い顔をして自分の袖で流れる汗を拭いている。このクソ暑い真夏に馬鹿みたいな長袖なんて着込んでいるから暑いんだろ。
「あれっ?手ぇケガしとるん?」
汗をぬぐう手を止め、ポカンと口を開けて俺の右手を指差した。手を下ろしていると見えにくい場所なのだが、よく見つけたな。
「そんなトコ切って〜、もしかして何か悩み?あ〜あ、ひとこと相談してくれたら良かったのに」
アルは心配するふうでもない。むしろ嬉しそうにニタニタと笑っている。この調子なら俺が死んでも笑っていそうだ。
「ちゃうかぁ。ハズレ?せやったら、お前は俺と違て不器用やから、何か切ろ思とったけど手ぇのほうズバッと切ってもたとか?」
短刀で何かを削る仕草をし、二、三削り目に大きく切る動きをして手を止めた。それで手を切ったと言いたいのだろう。誰が不器用だ、馬鹿にしやがって。
「帰るぞ」
きびすを返してアルに背を向ける。
「うそうそ!じょーだんやがな!真に受けなや。何か用事で来はったんですやろ。聞かしてくれはりまっか?」
とっさにアルは俺の服をつかんで引き留めた。歯を見せてニタニタ笑って俺の返事を待っている。どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか分からん奴だ。
「せやけど、何でケガしたん?何で何で?何したん」
いかにも知りたそうに身を乗り出し、俺の服を執拗に引っ張る。
だが、親父にやられたってのを知られるのも格好が悪い話だ。
俺は返事の代わりにアルをひとにらみして目を伏せた。
「あー、あー、また隠し事やー。お前は隠し事ばっかり!ホンマ、俺ら友だちなんかいな。断固として隠し事、反対ッ!」
茶化して言う馬鹿は無視して話を進めることにした。
「外まで届ける仕事が入ったが、行くのか」
「仕事??行く行く!外って、どこまで行くん?アンタのためなら地の果てまででも、どこでも行きまっせ」
アルは目を輝かせる。まったく、単純な奴だ。
「リザス領のオンまでだから片道四日はかかるが、予定はどうだ」
「ヒマ人な俺にそんな予定なんかあるワケ……いや、ちょい待って。三日、いや、二日でエエわ!出発待ってほしい。お願いや」
アルは急に顔を曇らせた。
「用事か。だったらイイぞ」
「いや、用事ちゃうねんけどな。まあ、俺もな、色々とありまんねや」
アルは腰に両手を当て、胸を張って自慢げにごまかした。
自分のほうこそ隠し事をしているじゃないか…まあイイが。
「分かった」
別に期日があるワケじゃないから二日や三日は大丈夫だ。だが、何で待たなきゃならないのだろうか。
「ほってったらアカンで。ほってったら、あとで覚えとけよ!道中、俺おらなんだら淋しいやろ?えっ?淋しないって?静か?まあ、そう言わんと。せやから、明日、あさって…しあさっての朝、行くからな。覚えといてな!」
俺の鼻先に指を突きつけて一人でまくし立てた。うるさい奴だ。
それに対して俺は適当にうなずき返しておいた。 ⇒
戻る
やっとのことで帰り着いた。
扉の前で立ち止まり手の平で額をぬぐう。一呼吸おいてから玄関の戸を開けた。
カウンターの前に置かれた椅子に座っている白髪の老人が目に入った。椅子は横向きで、ちょうどこちらからは横顔が見えている。
客だろうか。肩までの髪はうしろへ撫でつけられ、地味で目立たない上下とも灰色の服を着ている。身体の割に大きい、ほとんど骨と皮だけの両手は杖の頭に添えられていた。
俺に気づいて老人は目を上げ、こちらを見た。目が合う。八十はゆうに越えているだろう。少し背中を曲げていて小さく見える。深いしわの刻まれた顔、その中でひときわ鋭い眼光。見るからに身のこなしに隙のない老人だ。
「おかえり!」
手を止めて帳簿から顔を上げたじっちゃんが俺を見てカウンターの向こうから笑顔で言った。
急に俺が現れたもんだから、老人は『コイツは誰だ?』とでも問いかけるような顔つきでじっちゃんのほうへ顔を向けた。
「お話の、次男坊ですよ」
じっちゃんは笑顔ですかさず答えた。話って、俺のことを話していたのか。
「あなたがラルス殿のご子息ですか。お話どおり、よく似ていらっしゃる。お初にお目にかかります」
老人は、しゃがれ声で言い、杖にすがってわざわざ立ち上がった。心もとない動作で俺のほうへ身体ごと向き直り、王宮の人間みたいな仰々しい礼をして寄越した。そんな礼をされると背筋がむずがゆくなり、身の置き場に困る。
親父を知っているようだが、何者なんだ。武人だったのだろうというのは雰囲気から判るが。
それにしても親父に似ているとは、もってのほかだ。社交辞令でも言われたくはない。
「おいくつですか?」
老人は俺を見上げ、いきなり聞いてきた。
「十七だが」
「お若い。まだまだこれからですな。ところで、初対面で何なのですが、お聞きしたところによると、あなたは騎士になることを拒んでらっしゃるそうですが、どうしてです?」
何だ、この爺さんは。『うるさい』と、ノドまで出かけたが、たぶん客だろうから、さすがに暴言は引っ込めた。
そんなことを何で他人に詮索されなきゃなんないんだ。俺が拒もうが何しようが、あんたには関係ないだろ。しかも、それは過去の話だ。親父は昨夜、俺をあきらめた。もう俺は自由だ。
見知らぬ老人をにらみつける。だが、老人のほうも簡単に退きそうにないようすだ。
なぜか自信に満ちた顔つきで俺を見上げ続けている。口元には少し笑みを浮かべているが、そのほとんど色もないような目だけは鷹が獲物を狙う時のようだ。まるで射られるように鋭い。
とても答えずには放してもらえそうにない。
「親父が騎士だからだ」
俺が仕方なく答えると、老人は目を少し細めて眉間のしわを深くした。
「父上がそんなにお嫌いなのですか。どうしてお嫌いなのです?」
声は一本調子だが、責め立てるように聞こえるのは、俺がひねくれて聞いているからだろうか?とやかくうるさい爺さんだ。
答えずにこのまま部屋まで逃げ帰ってしまいたい。まったく、昨日といい今日といい、うるさい人間を突破しなければ部屋へは帰り着けないのか。
親父のどこが嫌いかなんて、ひと言で言い表せるもんじゃない。けど、俺は親父の何を嫌っているんだ?言われてみれば、いったい何をだろう…自分勝手なところか、決めつけるところか…どうも違う。
「冷たいところだ」
考えたあげく、そう答えた。すると老人はスッと目を細めた。
「冷たいですか、父上は。あなたの父上は温かい、本当は優しい人なのですよ。ただ、心を閉ざしているだけなのです」
何を言ってんだ、この爺さんは。親父が温かい?優しい?閉ざしている?何のことだ。
「あなたに、このお話を請けていただくことはできませんか?この剣を届けていただきたいかたがいるのです」
しばらく黙っていた老人は、やがて表情もなくじっと俺の目を見据えて言った。
俺が黙っていると、老人は座ったままカウンターの上の濃い紫色の布をそっと開いた。中には柄の尻に赤い房飾りのついた細剣があった。それを手にして俺に見せる。だが、房飾りがついている以外は何の変哲もない、普通で地味な剣だ。見せられても仕方がない。
じっちゃんが老人の向こうで、老人に分からないように俺へ向けて目配せしてきた。ハイと言えということだろう。何だか分からないが、とりあえずじっちゃんの言うとおりにしたほうがイイんだろう。
「分かった」
俺が言うと、老人は静かに微笑んだ。
「かねがね思っておったことなのですが…私も老い先短い。心残りとなってはなりませんから。ぜひともお願いいたします」
老人は座ったまま少し背を正して、俺へ向けて深々と頭を下げて寄越した。大人に頭を下げられると違和感があって、何となくバツが悪い。
老人は手にした剣をじっちゃんのほうへ差し出した。じっちゃんは頭を下げ、宝でも賜るように恭しく両手でそれを受け取る。
「過ちは一瞬で犯せますが、償いは一生涯かけてもできないものです。あなたはまだ若い。立ち直れないほどの過ちは犯さないことです」
老人は布に包まれてゆく剣を見つめながらそう言った。
どういう意味なんだろうか。その言葉は俺へ向けて言ったのだろうが、あたかも剣へ向けて語りかけたかのようにも取れた。
じっちゃんの動作を見届け、老人は杖にすがって立ち上がった。じっちゃんに一礼し、重い足取りで一歩ずつ足を引きずりながら表口へと向かう。
すれ違いざま、俺の肩に手をかけた。その骨と皮だけの手は意外に力強く肩をつかんだ。そして、微笑んだのか、口の両端に力を込めて口元のしわを深めた。
老人を目で追うと、俺が閉め忘れていた戸口を出てゆくところだった。昔の姿が想像できない枯れ枝のようなうしろ姿を無意識に見送っていた。
老人が去ったあとの大路には、強い日差しの当たる誰もいない石畳に向かいの家の影だけが濃く落ちていた。
…何だったんだ、あの爺さんは。
「そういうワケだ。お前さんご指名なんだ」
カウンターからじっちゃんに呼びかけられて我に返った。
「誰だ、あの爺さんは」
「まあ、ワケあってお前さんには正体を言うわけにいかねぇが、昔、有名だった人だ。それだけ言っておくよ。それ以上は何も言わないからな」
じっちゃんは、そう言いながら備えつけの収納箱に細剣を大切そうにしまい、もどかしくて危なっかしい手つきで鍵をかけた。
ワケあってと言われるとよけいに気になるのが人情だろう。いったい何者なんだ。雰囲気、それにあの礼の仕方。黒か白かは分からないが、おそらく王の騎士だったのだろう。
「親父の知り合いか」
「ああそうだよ。…ととと、馬鹿!何も言わないって言ったろ。さっき揚げ物を食ったから、うっかり続きをしゃべっちまうところじゃねぇかよ。聞くな聞くな」
じっちゃんは自分の顔の前で片手を振った。どうして隠すんだ?
「それはそうと、詳しい内容のほうなんだけどな、この剣をだな、リザス国のオンという街にいる鍛冶屋のモントという職人に返すんだ」
「返す?」
「そうだよ。昔、その人から受けた物だそうだ。だから返しに行くのが、ご依頼だ」
「分かった」
俺が返事をすると、じっちゃんは満足そうに一つうなずき、吊してある帳面を手に取った。
あの爺さん、心残りだとか言っていたが、借りた物だったのだろうか。
ずっと爺さんの言葉が回り続けていた。過ち…何の過ちだろうか。この剣と関係があるのか?
リザスは山脈を隔ててヴァーバルの西に隣り合った国だ。地図を見ないと確かなことは分からないが、そう遠くはないだろう。
「そうそう、アル坊もつれていってやれよ。まあ、あいつは給料なしだが。路銀はワシのおごりでな」
じっちゃんは自分になついているアルをやけに気に入っている。もう一人の孫みたいに思っているんだろう。
あいつがいるとにぎやかでイイんだが、どうも変な奴だから、くだらなくてガキっぽい遊びにつき合わされるだろうし、口数が多くて安眠妨害される。
「ところでお前さん、夜中に父ちゃんとどこかへ行ってなかったかい?」
じっちゃんは親指の上でペンを回しながら、いきなり話の矛先を俺へと向けてきた。
「それにそのケガ。何かあったのか?」
じっちゃんは片眉を上げて俺の右手首の傷を指差した。とっさに隠してもよけいにあやしまれるだけだろう。親父のことをなぜかじっちゃんには知られたくなかった。
悟られないように細心の注意を払う。
「何でもない」
「何でもないって、それ、刃物の傷じゃねぇかよ。何でもないわけないだろ。父ちゃんか?」
じっちゃんは非難するような顔で眉をひそめて言う。鋭い。じっちゃんには隠し事もできない。
「サンに引っ掻かれたんだ。…じゃ、俺は準備にかかるから」
じっちゃんの追及を躱す。
「こら、待たねぇか!卑怯だぞ」
じっちゃんがカウンターから上半身を乗り出して大声で呼んだ。それには応じず、俺は足を止めなかった。卑怯だとは心外だな。だけど、弁解はしたくない。
………
ちょうど別の用事があって近くへ行った帰り、ついでにアルの家へ寄って仕事の話を聞かせてやることにした。
移民街へ入ってからそう遠くはない。大橋を渡って北へ少し上がった坂の多い静かな住宅街に住んでいる。貴族まではいかないが、移民の中でも上の下くらいの身分の人間が住む地域だ。
なだらかな坂を上がり、大通りの並び西角にあたるアルの家の前へ着いた。
昼過ぎだがアルはいるだろうか。ちょうど入れ違いで俺の所へ遊びに来ているかも知れない。
見上げると窓の小さな張り出しからあふれるように花が垂れ下がっていた。家の前には無数の小さな赤い花の咲く花壇が並んでいる。
通りには花壇のある家が多く、色鮮やかで華やいでいる。路も広い。俺の家の周り、下町とは景色がずいぶんと違うな。
その花壇の前で、汚れた作業着の小柄な中年男が掃き掃除をしている。かなり熱心だ。よく見ると雇われじゃなくてアルの叔父さんらしい。
アルを呼んでもらおうか。…だが、あまりにも熱心な背中に信念を感じて二の足を踏み、出かけた言葉を引っ込めた。
「あら、こんにちは〜」
ためらっていると、ちょうどアルの叔母さんが玄関の引き戸を開けて出てきた。俺を見つけ、日傘を広げる手を止めて愛想良く笑った。俺は頭を下げ返した。
「エアリアルに用なんでしょ?ちょっと、あなた、使て悪いんですけど、あの子、呼んできてください」
叔母さんは掃き掃除中の叔父さんを見つけて声をかけた。背中を向けて掃き掃除をしていた叔父さんは、その声にビクリとして手を止めた。
ゆっくりと振り返った叔父さんの顔を見ると…汗で滑ったのか黒ブチの丸メガネが鼻の頭までずり落ちて乗っていた。
メガネを通さず、上目遣いでシゲシゲと俺を観察する。
たしか叔父さんの年は六十前後だったハズだ。叔父さんには悪いが、どことなく戯画のネズミに似ていておかしみを覚える。叔母さんのほうはネコのようだ。
「はよ呼んできてください。はよ」
「…ちょっとワシ、今、手ェ離せやしまへんのや。あんさんが行きなはれや」
「私、出かけますのん分かりませんか?はよ呼びに行ってください、はよう」
しびれをきらしたように叔母さんは少し強い口調になった。だいぶアルで慣れはしたが、やはり移民街の言葉には違和感がある。早口だと何を言っているのか解らない時がある。
「はいはい、分かりました。今、呼びに行くよってに。そう急かさいでエエじゃろて」
叔父さんは迫力に負けて掃除をあきらめたようだ。ブツブツと何か言いながら壁にホウキを立てかけた。
だが、すぐにホウキは滑って倒れてしまった。またそれを拾い、今度は慎重に立てかけた。
…が、じょじょにホウキは滑り出し、結局は地面へと倒れてしまった。
叔父さんは、しゃがみ込んでホウキを拾った。そして、またそれを壁に立てかけようとしたのだが、叔母さんの刺すような厳しい視線に気づいてホウキを落とし、急ぎ足で玄関の中へと入っていった。
いつ見てもソワソワとして、どこか気の小さそうな人だな。たしか、高名な学者のハズなのだが…。
「いっつもエアリアルが、お世話んなってます〜」
叔母さんがホホと笑って俺へ向けて言った。
「いや、こちらこそ」
「ところで、今日もお仕事のお話で来ゃはったんですか?」
叔母さんにとってアルは実の子じゃなくても、大切な一人息子だ。ウチの仕事に借り出すことについて叔母さんはどういう感情を持っているのか正直なところ分からない。
露骨にイヤな顔をしてはいないが、感情を隠しているふうでもない。その厚化粧のにこやかな顔をくずすことはない。
「あの子、頼りないから、あなたが責任持ってしっかり見とってくださいよ〜。子どもやから何しよるか分からへんからね。…あ、悪いけど、もうちょっと待っといてくださいね。ほな」
俺が返事をするよりも早く叔母さんは早口で話を締めくくり、真っ赤な口の両端を上げて黒い日傘を差して早足に歩き出した。
叔母さんの健康そうなうしろ姿をぼんやりと見送っていると、家のほうがにわかに騒がしくなった。
「待たんかい!このクソガキー!」
「悔しかったら取ってみ〜ぃ」
十歳くらいの子を追いかけて、開け放された玄関からアルが飛び出してきた。アルに兄弟はいないから、字を習いに来ている子か何かだろう。ケンカをしているらしい。暑いのに元気なことだ。
「ちょー、待ってな」
アルが俺に気づき、こっちを見て言った。だが、俺に気を取られてアルにできた隙を突いて相手の子がアルの手にあった紙片を奪い取った。
「あっ!また取りよる!返せ!」
「い〜や〜。お前がボ〜っとしとるからやろ」
「年下のクセにお前とか言うなよ!エエわ、お前のお母さんに言うたるからな、怒られ」
「エエよ、先生に言うたるから。お前こそ怒られろ」
よく見ると相手の子の両頬には、つねったのかひっぱたいたのか、赤いあとがある。
「うるさいわい!また、お前とか言いよる!どーでもエエから返さんかい」
アルが詰め寄ると相手の子は風のように玄関へ走り込んでピシャリと戸を閉めた。すぐに鍵をかける音がした。
「ムカつくなぁ!」
アルは追うのをあきらめて叫んだ。どうやらケンカは終わったらしい。似た者同士、どっちもどっちだな。
「何や。来んの珍しいなぁ!何の用やっちゅーねん」
かたわらの俺に向かってアルは怒りの続きの不機嫌な声で言った。
「ケンカか」
「ケンカってゆーか、いっつもアイツが生意気やねん。意地悪いしな、困っとんねん」
お前も生意気で意地が悪いだろうが、と言ってやりたかったが、よけいに当たられたくはないから口に出すのはやめた。
アルは赤い顔をして自分の袖で流れる汗を拭いている。このクソ暑い真夏に馬鹿みたいな長袖なんて着込んでいるから暑いんだろ。
「あれっ?手ぇケガしとるん?」
汗をぬぐう手を止め、ポカンと口を開けて俺の右手を指差した。手を下ろしていると見えにくい場所なのだが、よく見つけたな。
「そんなトコ切って〜、もしかして何か悩み?あ〜あ、ひとこと相談してくれたら良かったのに」
アルは心配するふうでもない。むしろ嬉しそうにニタニタと笑っている。この調子なら俺が死んでも笑っていそうだ。
「ちゃうかぁ。ハズレ?せやったら、お前は俺と違て不器用やから、何か切ろ思とったけど手ぇのほうズバッと切ってもたとか?」
短刀で何かを削る仕草をし、二、三削り目に大きく切る動きをして手を止めた。それで手を切ったと言いたいのだろう。誰が不器用だ、馬鹿にしやがって。
「帰るぞ」
きびすを返してアルに背を向ける。
「うそうそ!じょーだんやがな!真に受けなや。何か用事で来はったんですやろ。聞かしてくれはりまっか?」
とっさにアルは俺の服をつかんで引き留めた。歯を見せてニタニタ笑って俺の返事を待っている。どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか分からん奴だ。
「せやけど、何でケガしたん?何で何で?何したん」
いかにも知りたそうに身を乗り出し、俺の服を執拗に引っ張る。
だが、親父にやられたってのを知られるのも格好が悪い話だ。
俺は返事の代わりにアルをひとにらみして目を伏せた。
「あー、あー、また隠し事やー。お前は隠し事ばっかり!ホンマ、俺ら友だちなんかいな。断固として隠し事、反対ッ!」
茶化して言う馬鹿は無視して話を進めることにした。
「外まで届ける仕事が入ったが、行くのか」
「仕事??行く行く!外って、どこまで行くん?アンタのためなら地の果てまででも、どこでも行きまっせ」
アルは目を輝かせる。まったく、単純な奴だ。
「リザス領のオンまでだから片道四日はかかるが、予定はどうだ」
「ヒマ人な俺にそんな予定なんかあるワケ……いや、ちょい待って。三日、いや、二日でエエわ!出発待ってほしい。お願いや」
アルは急に顔を曇らせた。
「用事か。だったらイイぞ」
「いや、用事ちゃうねんけどな。まあ、俺もな、色々とありまんねや」
アルは腰に両手を当て、胸を張って自慢げにごまかした。
自分のほうこそ隠し事をしているじゃないか…まあイイが。
「分かった」
別に期日があるワケじゃないから二日や三日は大丈夫だ。だが、何で待たなきゃならないのだろうか。
「ほってったらアカンで。ほってったら、あとで覚えとけよ!道中、俺おらなんだら淋しいやろ?えっ?淋しないって?静か?まあ、そう言わんと。せやから、明日、あさって…しあさっての朝、行くからな。覚えといてな!」
俺の鼻先に指を突きつけて一人でまくし立てた。うるさい奴だ。
それに対して俺は適当にうなずき返しておいた。 ⇒
戻る