(10)
周りを騒がせることもなくルシアを見つけて屋敷から救い出すことに成功した。
気絶した伯爵をベッドに縛りつけてきたことが別の意味で心配だが、あとは野となれ山となれだ。なるようにしかならないだろう。
屋敷を出てすぐ、俺は率先して不名誉な扮装を解いた。誰が何と言おうと当然の権利だと思う。
「ええ〜、お前、女装やめるん?」
アルは、とても残念そうに言った。それは、どういう意味なのだろうか?
逆にルシアは男の格好をするようだ。わりあい背が高く、元が良いからサマになっている。ボンの『イモ娘』なんか比べ物にならない。
月明かりのおかげで何とか灯りなしで歩ける平原を二時間は逃げただろうか。
夜陰にまぎれてできるだけ遠くへ逃げたに越したことはないのだが、今まで要らない仕事をやらされていたせいもあって疲労していたのは確かだ。
「なぁ、ちょータンマ。足痛い」
案の定と言うべきか、アルが真っ先にネを上げた。
「仕方ないなァ」
ボンが応える。口ではそう言っているが、本人も疲れた顔をしている。
まあ、疲れてはいるが目的を達成できて嬉しそうでもある。ボンと顔を見合わせたルシアも同じくらい嬉しそうな表情をしている。
二人を見ていると、たまには人の幸せを手伝うのも悪くはないな、と、ガラにもなく思ってしまった。
暗黙のうちに意見が一致したようで、結局は休むことにした。
まだ夜明けまでに時間がありそうなころ、小さな田舎町で手ごろな宿を見つけた。
中途半端な時刻だったが、快く泊めてくれた。
人数に相応な部屋へ通されると、皆一様に荷を下ろしてホッと一息つく。
「これからどうするんだ」
「うーん、そだナぁ。ヴァーバルに帰るわけにもいかないしな…」
一息つくついでに出た俺の問いにボンは考え込む格好をした。
顔を見ると、べつだん悩んでいるふうにも見えないから、たぶん考え込んでるフリだろう。それとも、本来こういう暑苦しくて陽気な顔だから本気で悩んでいたとしても深刻さが感じられないだけだろうか?
「とりあえずここから離れて別の国へ行ってみようと思ってるんだけど、どうかしら」
「うん、イイ案だ!」
ルシアが誰にともなく言うと、ボンが手放しで賛成した。やっぱりコイツ、自分では何も考えていなかったようだな。
「別の国?」
アルが興味津々で問いかけると、ボンは仰々しくうなずいて見せる。
「ああ、そうサ。キミたちに迷惑をかけるわけにはいかないからナ」
もうすでに大きな迷惑をこうむったような気もするのだが、あえて口には出さずにおいた。
「それからサぁ、オレたちは泊まらないで、夜明けまでに、もうちょっと遠くまで行くことにしたヨ」 ボンが言いながら同意を得るようにルシアの顔を見る。
そして二人は暖かく揺れる灯光の中、目と目で意志を確認して力強くうなずき合った。
「あ、そうそう。それと、ウチの家にコッソリ届けといてほしい物があるんだ」
そう言ってボンは紙を取り出して灯りに取りすがるような格好で何かを書きなぐり始めた。
数分待っていると、その紙を折り畳んで俺の手の中に押し込んできた。
紙片を手に俺がいぶかしんでいると、ボンは「父さんに手紙サ」と、サラリと流した。
「窓なんかから投げ入れといてくれりゃあイイよ。ま、投げ入れるとこを父さんにだけは見つからないようにナ」
そりゃそうだろ。あのうるさそうなオッサンには俺だって見つかりたくない。
ボンは荷物を再び背負った。
「またもし会えた時にはヨロシクな。その時は、きっとオレはビッグになってるだろうヨ!」
ボンは片目を閉じ、冗談とも真実ともつかない調子で言う。
ボンとルシアは礼を言って部屋をあとにした。
急に火が消えたように静かになった。十人分うるさい男が去ったのもあるが、きっと人数分あてがわれたムダに広い部屋が閑散として感じられるからだろう。
「あ〜あ。それにしても、お前の女装は面白かったなぁ。もう一生、見れへんのやろなぁ…。でも、またの機会にヨロシク」
アルは勝手なことをしみじみと言いながら、ごろりとベッドに寝転がった。スミが好きならしく、広い部屋なのだが、窓際に置かれたベッドを自分の寝床に決めたようだ。
アルは半身を起こし、枕元の灯りを消した。
「…てか、お前、オカマ酒場とかで働いたらエエねや。美人やから、きっと人気出るで〜」
アルがキシシシと笑いながら思い出したように言った。クドい野郎だ。
完全に無視してやることにした。
何気なく俺は窓辺に立ち、少し曇った窓ガラスを指の腹で拭いた。
近くのロウソクを吹き消すと部屋の灯はなくなり、差し込む月光がにわかに頼もしくなる。
目が慣れてくると、しだいに部屋の中がよく見えてくる。それほど今夜の月は明るい。
傾いた月は少し見上げると見える高さにある。ぴんと空気の張りつめた冬空が澄みきっているせいで、その輪郭は切り抜いたかのように鮮明だ。
少し欠けてきているが、見ようによっては、かろうじて満月と呼べそうだ。
「月、キレイやなぁ」
アルはベッド上に身体を起こしながら、つぶやいた。
「なぁ、お前はな、月は自分で光られへんの知っとる?」
「そうか」
「うん、そうやねん。ウチのおっちゃんが言うてたんやけど、月は太陽があるから、ああやって光れんねんて。月は受動的で、太陽があらへんかったら何もでけへんねん」
「お前そっくりじゃないか」
「そーかぁ?いやぁ、俺って月みたいに光り輝いてる?……って、今の話の流れからすると、どーゆー意味に取ったらエエねん!」
もちろん馬鹿にしたつもりだった。
俺は返事をせずに黙っていた。不本意な女装をいつまでも笑いのタネにするから、仕返しだ。
「フンッ!もう寝るわぃ!お前なんか大嫌いや、あほマヌケ馬鹿のクソ野郎」
ガキ丸出しの捨て台詞を残して静かになった。
まったく、すぐにスネる奴だ。感情を素直に表しすぎるから、いつまでもガキだと言われるんだろ。
よほど疲れていたのか、一分も経たない内にアルの寝息が聞こえてきた。俺に負けず劣らず寝つきがイイ。
しかも、布団を着ずに寝てしまっている。帰り着くまでに風邪をひかれては困る。
アルの足元に三つ折りにされている布団を引っぱり、肩辺りまでかけてやった。
ふと、寝顔に見入る。
月明かりに照らされたアルの頬は白磁のように白く、唇は紅い花びらを浮かべたかのようだ。
意外に形の良い唇がそっとほころび、ため息を洩らすと、何だか分からないが胸の辺りがグッと締めつけられる感覚に陥る。
ほとんど自分の意思に関係なく、気がつくとアルの唇に自分の唇を重ね合わせていた。柔らかくて心地よいぬくもりが唇に感じられる。
口で息をすればイイのか、鼻で息をすればイイのか分からず、息苦しい。軽く触れるつもりが、深くむさぼっていた。
苦しかったのか、アルは小さくうめいて顔を逸らした。
全身が熱く、自分の鼓動が大きく感じられた。胸の奥では快感とも不快感ともつかない物がじわじわと拡がり、身体の芯を軽くしびれさせている。
誰とも唇を重ねたことなんてなかった。もちろん、それが異性であっても、同性であっても。
あまりにも唇が魅惑的に見えたから、ふとした戯れなのか?
それとも気づかないうちに、俺はアルにそんな感情をいだいていたのか?
…分からない。どちらにせよ、同意も得ずにこんなことをするのは、あの伯爵のことを馬鹿にできないなと自嘲するしかなかった。
一方的だったという罪悪感、同性相手という嫌悪感がある。なのに、忘れようとしても、すぐには忘れられそうもない柔らかな感触が唇に残っている。
窓の外を見上げると、冷たい空で月が嘲笑っていた。
『仮相の夜宴』おわり
《第8話へ、つづく》
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周りを騒がせることもなくルシアを見つけて屋敷から救い出すことに成功した。
気絶した伯爵をベッドに縛りつけてきたことが別の意味で心配だが、あとは野となれ山となれだ。なるようにしかならないだろう。
屋敷を出てすぐ、俺は率先して不名誉な扮装を解いた。誰が何と言おうと当然の権利だと思う。
「ええ〜、お前、女装やめるん?」
アルは、とても残念そうに言った。それは、どういう意味なのだろうか?
逆にルシアは男の格好をするようだ。わりあい背が高く、元が良いからサマになっている。ボンの『イモ娘』なんか比べ物にならない。
月明かりのおかげで何とか灯りなしで歩ける平原を二時間は逃げただろうか。
夜陰にまぎれてできるだけ遠くへ逃げたに越したことはないのだが、今まで要らない仕事をやらされていたせいもあって疲労していたのは確かだ。
「なぁ、ちょータンマ。足痛い」
案の定と言うべきか、アルが真っ先にネを上げた。
「仕方ないなァ」
ボンが応える。口ではそう言っているが、本人も疲れた顔をしている。
まあ、疲れてはいるが目的を達成できて嬉しそうでもある。ボンと顔を見合わせたルシアも同じくらい嬉しそうな表情をしている。
二人を見ていると、たまには人の幸せを手伝うのも悪くはないな、と、ガラにもなく思ってしまった。
暗黙のうちに意見が一致したようで、結局は休むことにした。
まだ夜明けまでに時間がありそうなころ、小さな田舎町で手ごろな宿を見つけた。
中途半端な時刻だったが、快く泊めてくれた。
人数に相応な部屋へ通されると、皆一様に荷を下ろしてホッと一息つく。
「これからどうするんだ」
「うーん、そだナぁ。ヴァーバルに帰るわけにもいかないしな…」
一息つくついでに出た俺の問いにボンは考え込む格好をした。
顔を見ると、べつだん悩んでいるふうにも見えないから、たぶん考え込んでるフリだろう。それとも、本来こういう暑苦しくて陽気な顔だから本気で悩んでいたとしても深刻さが感じられないだけだろうか?
「とりあえずここから離れて別の国へ行ってみようと思ってるんだけど、どうかしら」
「うん、イイ案だ!」
ルシアが誰にともなく言うと、ボンが手放しで賛成した。やっぱりコイツ、自分では何も考えていなかったようだな。
「別の国?」
アルが興味津々で問いかけると、ボンは仰々しくうなずいて見せる。
「ああ、そうサ。キミたちに迷惑をかけるわけにはいかないからナ」
もうすでに大きな迷惑をこうむったような気もするのだが、あえて口には出さずにおいた。
「それからサぁ、オレたちは泊まらないで、夜明けまでに、もうちょっと遠くまで行くことにしたヨ」 ボンが言いながら同意を得るようにルシアの顔を見る。
そして二人は暖かく揺れる灯光の中、目と目で意志を確認して力強くうなずき合った。
「あ、そうそう。それと、ウチの家にコッソリ届けといてほしい物があるんだ」
そう言ってボンは紙を取り出して灯りに取りすがるような格好で何かを書きなぐり始めた。
数分待っていると、その紙を折り畳んで俺の手の中に押し込んできた。
紙片を手に俺がいぶかしんでいると、ボンは「父さんに手紙サ」と、サラリと流した。
「窓なんかから投げ入れといてくれりゃあイイよ。ま、投げ入れるとこを父さんにだけは見つからないようにナ」
そりゃそうだろ。あのうるさそうなオッサンには俺だって見つかりたくない。
ボンは荷物を再び背負った。
「またもし会えた時にはヨロシクな。その時は、きっとオレはビッグになってるだろうヨ!」
ボンは片目を閉じ、冗談とも真実ともつかない調子で言う。
ボンとルシアは礼を言って部屋をあとにした。
急に火が消えたように静かになった。十人分うるさい男が去ったのもあるが、きっと人数分あてがわれたムダに広い部屋が閑散として感じられるからだろう。
「あ〜あ。それにしても、お前の女装は面白かったなぁ。もう一生、見れへんのやろなぁ…。でも、またの機会にヨロシク」
アルは勝手なことをしみじみと言いながら、ごろりとベッドに寝転がった。スミが好きならしく、広い部屋なのだが、窓際に置かれたベッドを自分の寝床に決めたようだ。
アルは半身を起こし、枕元の灯りを消した。
「…てか、お前、オカマ酒場とかで働いたらエエねや。美人やから、きっと人気出るで〜」
アルがキシシシと笑いながら思い出したように言った。クドい野郎だ。
完全に無視してやることにした。
何気なく俺は窓辺に立ち、少し曇った窓ガラスを指の腹で拭いた。
近くのロウソクを吹き消すと部屋の灯はなくなり、差し込む月光がにわかに頼もしくなる。
目が慣れてくると、しだいに部屋の中がよく見えてくる。それほど今夜の月は明るい。
傾いた月は少し見上げると見える高さにある。ぴんと空気の張りつめた冬空が澄みきっているせいで、その輪郭は切り抜いたかのように鮮明だ。
少し欠けてきているが、見ようによっては、かろうじて満月と呼べそうだ。
「月、キレイやなぁ」
アルはベッド上に身体を起こしながら、つぶやいた。
「なぁ、お前はな、月は自分で光られへんの知っとる?」
「そうか」
「うん、そうやねん。ウチのおっちゃんが言うてたんやけど、月は太陽があるから、ああやって光れんねんて。月は受動的で、太陽があらへんかったら何もでけへんねん」
「お前そっくりじゃないか」
「そーかぁ?いやぁ、俺って月みたいに光り輝いてる?……って、今の話の流れからすると、どーゆー意味に取ったらエエねん!」
もちろん馬鹿にしたつもりだった。
俺は返事をせずに黙っていた。不本意な女装をいつまでも笑いのタネにするから、仕返しだ。
「フンッ!もう寝るわぃ!お前なんか大嫌いや、あほマヌケ馬鹿のクソ野郎」
ガキ丸出しの捨て台詞を残して静かになった。
まったく、すぐにスネる奴だ。感情を素直に表しすぎるから、いつまでもガキだと言われるんだろ。
よほど疲れていたのか、一分も経たない内にアルの寝息が聞こえてきた。俺に負けず劣らず寝つきがイイ。
しかも、布団を着ずに寝てしまっている。帰り着くまでに風邪をひかれては困る。
アルの足元に三つ折りにされている布団を引っぱり、肩辺りまでかけてやった。
ふと、寝顔に見入る。
月明かりに照らされたアルの頬は白磁のように白く、唇は紅い花びらを浮かべたかのようだ。
意外に形の良い唇がそっとほころび、ため息を洩らすと、何だか分からないが胸の辺りがグッと締めつけられる感覚に陥る。
ほとんど自分の意思に関係なく、気がつくとアルの唇に自分の唇を重ね合わせていた。柔らかくて心地よいぬくもりが唇に感じられる。
口で息をすればイイのか、鼻で息をすればイイのか分からず、息苦しい。軽く触れるつもりが、深くむさぼっていた。
苦しかったのか、アルは小さくうめいて顔を逸らした。
全身が熱く、自分の鼓動が大きく感じられた。胸の奥では快感とも不快感ともつかない物がじわじわと拡がり、身体の芯を軽くしびれさせている。
誰とも唇を重ねたことなんてなかった。もちろん、それが異性であっても、同性であっても。
あまりにも唇が魅惑的に見えたから、ふとした戯れなのか?
それとも気づかないうちに、俺はアルにそんな感情をいだいていたのか?
…分からない。どちらにせよ、同意も得ずにこんなことをするのは、あの伯爵のことを馬鹿にできないなと自嘲するしかなかった。
一方的だったという罪悪感、同性相手という嫌悪感がある。なのに、忘れようとしても、すぐには忘れられそうもない柔らかな感触が唇に残っている。
窓の外を見上げると、冷たい空で月が嘲笑っていた。
『仮相の夜宴』おわり
《第8話へ、つづく》
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